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『存在のすべてを』複雑に絡み合う過去と現在、そして人間の本質に迫る感動作

塩田武士氏の『存在のすべてを』は、平成3年(1991年)に発生した未解決の誘拐事件を軸に、30年後の現在を舞台にしたスリリングかつ感動的な物語です。事件当時に警察を担当していた新聞記者の門田は、ある刑事の死をきっかけに、当時の被害者の「今」を知りたいという強い衝動に駆られます。事件の真実に迫るために再取材を行ううち、次第に浮かび上がるのは、一人の写実画家の存在。この謎の人物と事件がどう結びつくのか、物語は読者を引き込みながら展開していきます。

物語の序盤は、まさに犯罪小説の王道とも言える緊迫感ある展開が魅力です。読者は一瞬たりとも目が離せない状況に置かれます。実際、誘拐事件を追う門田の視点は、リアルな現場感を伴って描かれ、その中で生きる人々の葛藤や複雑な人間関係が浮き彫りにされていきます。

しかし、この作品の真骨頂は、単なる犯罪小説の枠を超えた多層的な物語構造にあります。事件の真相に迫るスリルだけでなく、青春小説のようなほろ苦さや、人生の無常さを描く人間ドラマ、そして感動のラストへと繋がる展開が読者の心を掴みます。物語が進むにつれ、犯罪の陰に潜む人間の悲しみや、真実を追い求める門田の信念が、深い感動を呼び起こす。

写実絵画との関わり

特筆すべきは、この物語の中で重要な役割を果たす「写実絵画」の存在です。写実絵画とは、現実の光景をそのまま忠実に描く絵画技法で、デジタル写真が普及した現代においても、その意味や価値が再評価されています。物語に登場する写実画家は、実在するホキ美術館をモデルにしていると思われる「トキ美術館」でその技術を極め、圧倒的なリアリティを持つ作品を生み出します。

「写真のように見える絵画に、果たしてどんな意味があるのか?」と疑問に思うかもしれません。しかし、『存在のすべてを』を通して描かれる写実絵画の世界は、ただ目に見えるものを描くだけでなく、人間の内面や感情を映し出す鏡のような存在であることに気づかされます。これらの作品は、デジタル写真では表現できない「魂の存在」を感じさせ、その圧倒的な迫力に圧倒されるでしょう。美術の世界に疎い人でも、この作品を読むことで、写実絵画に対する関心が一気に高まること間違いありません。

読み応えのあるキャラクターたち

『存在のすべてを』には、多くの登場人物が登場し、それぞれの人物が物語の重要なピースとなっています。特に門田の人物像は、読者に強い印象を残すでしょう。彼は、30年という時間を経てもなお、事件の真実を追い続ける執念深いジャーナリストです。「真実を伝える」というジャーナリズムの使命を持ち続けながら、彼自身が事件とともに成長し、変化していく様子が細やかに描かれています。

また、事件に関わる写実画家の人物像も興味深いものです。美術の世界では、「白い巨塔」とも言われる権力闘争が繰り広げられ、若手芸術家が大きな壁に阻まれる現実が描かれます。絵画の世界でも、才能ある若者がその道を閉ざされるという厳しい現実が存在し、芸術が決して「美しいだけの世界」ではないことを感じさせます。こうしたリアルな背景が、物語に厚みを持たせています。

ジャーナリズムの視点と人間の物語

『存在のすべてを』の中で、門田が行う調査報道は、ジャーナリズムの本質を表しています。調査報道は、単に事実を伝えるだけでなく、それが社会にどのような影響を及ぼし、犯罪防止や捜査の改善にどうつながるかという目的を持っています。しかし、本作が他の犯罪小説と一線を画すのは、事件の裏に隠された「人間」に焦点を当てている点です。

犯人や被害者もまた、人間であり、その背後にはそれぞれの人生があります。事件は「悪人の行為」では終わらず、門田が「人間を書きたい」という信念を持って真実に迫る姿勢は、読者に深い感動を与えます。この「人間を書く」というテーマが、最終的に事件の核心に迫るカギとなるのです。

読む際の注意点

『存在のすべてを』は、非常に精緻に構築された物語であり、複雑な時間軸の入れ替わりや、多くの登場人物が登場するため、一定の集中力を持って読む必要があります。特に、過去と現在が何度も交錯する展開に戸惑う読者もいるかもしれません。しかし、それを乗り越えれば、圧倒的な読後感とともに、この作品の深い魅力に取り憑かれることでしょう。

まとめ

塩田武士氏の『存在のすべてを』は、犯罪小説としてのスリルと、深い人間ドラマを見事に融合させた作品です。平成3年の未解決事件を追う新聞記者の門田が、30年の時を経て真実に迫る過程は、まるでパズルのピースが少しずつはまり込んでいくような感覚を読者に与えます。さらに、写実絵画という芸術の世界と犯罪事件が絶妙に絡み合う点も、本作の大きな魅力です。

複雑な物語展開と多くの登場人物によって、一定の読み応えを求められますが、それだけの価値がある一冊です。本書を読み終えたとき、あなたはきっと、事件の真実だけでなく、「存在」とは何かという根源的な問いについても深く考えさせられることでしょう。

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