場面の繰り返し
他の方のコメ書いてて改めてこれ記事にできるなと記事にしているので、一部の方にはどっかで見たなと思われるかもしれませんが、それは本当にどっかで見たものです
記事タイトルにした場面の繰り返し・表現の繰り返しというのは私が何かを書く際には冗長とあっさりばっさり切り捨てるものなのですが、他人が書いてるものにまで冗長とは思っていません。勿論繰り返していることには意味があるわけで、書いてて何度も似た場面・表現だなと気付いていないはずは・・・無いのです。おそらく無いのです。読み取れるかはともかく、作者さんは何らかの意味を込めているはずなのです。
その時々によって効果は変わります。例えば、あえて表現を重複させることでキーワードを強調することが出来るでしょうし、この記事を書こうと思った作品では、似た場面を度々登場させることで主人公の悩みや思考が同じところを巡っていることを表現していたのだと解釈しています(違ったらどうしよう)。
で、ここから考察に入るのですが、上手い文章を書く人というのは重複表現も上手く利用しているのはここまでより言うまでもないことですが、それをリズムよく整えた文章に仕上げることで冗長と思わせないということもやっているのではないかと。
それがどういう技術で行われているのかは想像もつきませんが、これができるとできないでは文章表現力が大きく変わるのは間違いないでしょう。文章の深み、表現の掘り下げの引き出しが増えるわけですから。
このことに気付いていながら私は良く言えば無駄の無い、悪く言えば無駄の無さ過ぎる文章しか書かない(書けない)かというと・・・表現を徹底的に削ることで文章のリズムを作ることを意識しているからです。それもしっかり表現を凝らした文章を書くのが苦手だと自ら放棄した結果によるものなのですが、自分で切り捨てたまさにその部分にこそ今の自分の文章にない洗練された表現への近道があるのではないかと気付くという自己矛盾。
最近はしっかりした表現もつけた文章書きたいなとまた思い始めているのですが、一旦完全に切り捨てた部分だけにスタイルチェンジに近いことを要求されてなかなか難しく・・・ 今のところはこのような技術論を考えるだけになっています。