自己紹介①(幼少期〜中学生)
はじめに
とりあえず生まれや育ち、学生時代から就職するまで、そしてなぜライバーになったのか?それからは?を何回かに分けて記事にします。すこーしでもボクの事が伝われば幸いです。
色々考えやボクなりのノウハウはそれからそれからって事で。
1.生まれて育って
1979年8月6日。ボクは岐阜県は岐阜市に生まれました。父親は生演奏が聞けるバーのバンドマンのギタリスト。母親は流しの歌手。
馴れ初めは聞いたことありませんが、なんとなくどんな感じでボクが生まれるに至ったかは想像できます。
両親共にいわゆる「お堅い職業」では無かったので生活時間帯は不安定。親との会話、特に父親との思い出が少ない。深夜に帰ってきた時点で酒でベロンベロンで、ボクが学校から帰ってきて寝るまでの間は家にも居らずお小遣いくれる時と、盆と正月にたまに話す位。
ボクが生まれて数年は岐阜に留まらず、東京や大阪にも居た時期があるらしいけど、もちろん記憶なんてないので自分の故郷のように語ることも出来ず。
そんなこんなで、小学校卒業までは何度も引越しや転校をした。生まれ持っての高いコミュニケーション能力で転校先でもいつでも人気者!…なんてことはまるで遠い話で、いじめにも何度も遭った。
今思い返せば、転校が理由でいじめられたのかな?と思うことも。もともと人付き合いは得意では無かったし、友達とつるむのも苦手。どっちかというと、家で1人で工作(貧乏だった為、ファミコンなどの類はなかなか手に入れられなかった)してたいぐらい。
決して裕福では無かった家庭だったけど、誕生日やクリスマスとかはそれなりにやってもらって。
おそらく唯一の家族旅行と言える温泉旅行も写真が残ってなくてただただ、雪の多い露天風呂で猿と白鷺を目撃した記憶が今でも鮮やか。
まあ、とりわけ飛び抜けた才能も無かったし、運動も出来ない方なので、ただただ淡々と小学生を過ごしてた気がする。
2.サッカーが好きでは無かったが
小学生くらいの時期ならたくさんの方が経験してると思うんだけど、とにかくそのくらいの年代は足が早いヤツがモテる。チヤホヤされる。なんなら偉い(笑)
喧嘩とかはしない方だが、運動マウントってやつでどちらかというとバカにされることも多かった。
心の中では
「アイツ足速いけど、授業で七の段言えなかったぜ」と心の中で嘲笑する嫌なヤツでした(笑)
とはいえ、やっぱり足は速くなりたいし、運動できたほうがいいじゃないですか。
なんとかならんかなーと思ってたら
地元のサッカー少年団の団員募集が。
これに入れば足速くなるんじゃね?と思い、親に懇願して入団。
どちらかというと勉強の方が好きなボクがそんなこと言い出すもんだから親は驚いたでしょな。
前述した通り、決して裕福な家庭では無かった。
小学校低学年のときかな、毎週クラスで暗算大会があってボクは毎回2位。1番を取る子はソロバン塾に入ってたらしく、どうしても悔しくて母親にソロバン塾に入らせてくれと頼んだけど
「そんなもの、ソロバン使わずに勝て!」
と言われ入塾は断念。後にその子にはリベンジを果たんだけど、なんかしっくりきてない(笑)
今思えば月謝払うのが大変だったのね。
なんでもお金掛けて環境整えれば上手くいくのか?ってのはこんな細やかなエピソードからすらも考えさせされる。
おっと脱線。
念願のサッカー少年団に入団。
練習は学校が無い、お休みの日。
ぶっちゃけサッカーに興味無かったし、練習はハード。ひたすら走る。走る。走る。
動機が不純といいますか、サッカーやりにきたいわけでもないからなんとなく噛み合わず。
そして、入る前に少し考えれば分かったことだったんだけど、そこでも試合のレギュラーやいいポジションを取るのは足が速いヤツらであった。。
そりゃあ同じ練習してたら追い抜けませんよね。
かといってそこまでサッカーに情熱があった訳ではないボクもなんとなく、毎週の練習についていけるようになりました。
小学校3年の頃ですね。
これから少しずつサッカー少年になるか?
と言った矢先、身体を壊します。
肺炎だかなんだか。
細かい事は覚えてません。
死にかけた?と言われるとそこまで鮮明に覚えてないし、今生きてるからいーじゃん位のノリで語らせてください。
結果として、ドクターストップかかったみたいで、サッカーを続けることができなくなりました。
やっとなんか打ち込めるものに出会えそうだったのになー…と学校から帰って毎日ファミコンに打ち込む日々。(少ないお小遣いをいかに増やしてファミコンを手に入れたか?の話はまた今度にでも)
母親が???なことを言い出したのです。
小学校3年生。
今から33年前のことでした。
3.運命の投資
「これからはパソコンの時代や!」
急に母がそういいだしたのです。
9歳ぐらいだったボクはポカーン。
なんかボタン多くて、ブラウン管みたいな画面ついてるアレでしょ?ぐらいしか分かりませんでした。
当時のパソコンと言ったら超高級品。
当時の値段で50万円ぐらいしたんじゃないかな。
当然貧乏な我が家に変える訳もなく。
そこで、母親が投資家で生計を立ててた祖父に懇願したらしく。
遊ぶ金は渡さなかった祖父ですが、よっしゃそれなら未来があるな。投資したるわ。
そう言って、パソコンとパソコン教室の学費、入学金を工面してくれることに。親族内奨学金制度の発令でした。
さて、そうは決まったものの9歳のガキを入学させてくれるパソコン教室が見当たらない。
ほとんどが「子供には無理」と門前払い。
そりゃそうだわ。事務処理なんて普段してないし、数学だって小学生レベル。常用漢字すらまだ覚えてない程度の語彙力。
それでもなんとかして習わせたかったんでしょうね。その当時はITのアイの字も耳にしない時代。とはいえ、すこーしずつ、事務職にパソコン(当時の言葉を使うとオフコン)が導入され始めた時期でもありました。
ニュースもそんなに見ないし、ウチにあるのは女性週刊誌。家に流れるのはEarthWind and Fireばかりのお袋になんのインスピレーションが、舞い降りたんだか。分からんものです。
ちなみにその影響もあって、EarthWind and Fireは大好き。一番好きなのは「宇宙のファンタジー」です。
そんな中、なんとか1校だけ
「本人が興味あるならやってみましょうか」と
言ってくれたところが。
かくして、ボクは仕事帰りの大人に混ざって
パソコンを習うことになったのです。
4.嫌なヤツでした
さてさてパソコンでプログラミング…というよりもまずはブラインドタッチの授業でした。
テキストが渡されるのですが、それはそれは写経のようにはじめは
fff fff fff fff fff fff fff
jjj jjj jjj jjj jjj jjj jjj jjj
と無意味なアルファベットの羅列です。
これがまた退屈かと思ったら
…家に帰ってもひたすら復習。
あれよあれよと1週間ほどでキーボードの配列を覚えることができました。子供って強ぇ。
思えばローマ字打ちですら、母音の5文字、子音の10文字。15文字の場所を覚えればブラインドタッチは可能。最近のゲームのコントローラーのボタンの数を考えれば決して超能力レベルではないはず。
やっぱり覚えようかな…ってアナタ。
1日1キー。15日あればローマ字でブラインドタッチも決して夢ではないです。
ブラインドタッチの次はいよいよプログラミング。まったく歯が立たないか…と思いきや、最初は指定した数だけ▫️を表示しましょうとか、入力した2つの数字を足して表示しましょう。と簡単なものばかり。
そう、どれだけ難解なプログラミングですら、分解したら一つ一つは大した話ではないのです。
当時この感覚を会得できたのはデカい。
今でも頭抱える問題と日々戦ってますが、落ち着けば所詮は理解できる話や原因に分解できるってもの。人間面食らう時ってそのスケールや複雑性なんですよね。
さてさて周りの大人に比べて早めにブラインドタッチを習得し、プログラミングも毎日のように自宅で復習してアレンジしてゲームも作り始めた佐助少年は、グングンとプログラミングの力をつけていきます。
むしろファミコンやってるより楽しい。
そんな中、当時のナントカ省が主催のプログラミングの試験がありました。
受験しますか?と当時の先生に聞かれ、資格試験とか縁のない9歳の少年は受験します。問題文がビジネス用語多かったりして読むのは大変でしたが、そこは周りの大人にたちに助けられてクリア。
試験本番もリラックスして臨みました。
そしてあっさり合格。
聞けば日本最年少だったとか。
それがどれくらいのものかは分かりませんが、最年少は最年少。なんちゃって日本一です。
新聞やテレビで取り上げられたことも。
はい。少しチヤホヤされました。
あれ?俺すごいんじゃね?と勘違いモードを小学生で体験。そんなこんなで周りの友達とはますます感覚のズレを感じる嫌なヤツでした(笑)
自宅で休みの日はゲーム作ったり、複雑な演算させてほくそえむ嫌な小学生でした。
そのために、中学生、高校生、大学の入り口ぐらいまでの数学を学校の先生にお願いして、放課後の職員室で教えてもらったことも。
そんなこんなで、何となく浮いたヤツだったんですが、親の仕事の都合で引越し。
中学生からはまた心機一転かなーと考えつつ、なんとなーく将来はプログラマーとかになるのかなーって。
中学生、高校生と楽しく青春して、色々あって就職するところの話はまた次の記事にて。
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