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東京オリンピック開会式を振り返る
年の瀬も迫り、ニュース番組では改めて今年の総括が行なわれている。コロナ禍において様々な行事があった中、日本にとって今年一番のイベントはやはり東京オリンピックだったろう。
東京ではぼったくり男爵と揶揄され、その後、中国の彭帥(ほうすい)テニス選手への対応が疑問視されたこともあり、IOC(特にバッハ会長)の評判はすこぶる悪い。そんな中でも、東京オリンピックの開会式では、正当に評価されるべきであろう点をここに改めて記しておく。
積年の願い
「私たちは、オリンピック大会期間中に命を落とされた方々のことを決して忘れることはありません。今でも私たちの記憶に深く刻まれている人たちがいます。彼らは大会期間中に亡くなられたすべての方々の象徴として、私たちの心の中に生き続けています。1972年ミュンヘンオリンピックで犠牲になったイスラエル選手団のメンバーたちです」
東京オリンピックの開会式での日本の国旗掲揚、国歌斉唱の後、オリンピック史上初めて、ミュンヘンで殺害された11人のイスラエル選手団を追悼し、1分間の黙祷が捧げられた。実に49年の歳月の後、国際オリンピック委員会が公式に追悼したのである。
イスラエルオリンピック委員会のイガル・カルミ会長は、「私たちは長い間、遺族の方々と共に追悼式典を行なってもらえるよう働きかけてきました。この度のトーマス・バッハ会長の決断に敬意を表します。長年願い続けてきましたが、信じられない思いです」と語った。
最愛の夫を失ったイラナ・ロマーノさんとアンキ・シュピッツェルさんは、東京の新国立競技場にいた。
「ミュンヘンで殺害された犠牲者に対してようやく正義が行なわれました。諦めずに49年間闘ったことが遂に報われました。私たちは、この会場にいて涙が止まりませんでした。これで11人の犠牲者はようやく安らかに眠ることができます」
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歴史的経緯
国際オリンピック委員会は、スポーツに政治的な要素を持ち込まないという建前のもと、アラブ諸国からの強い圧力によって、犠牲者の追悼式典を拒絶してきた歴史がある。イスラエルはオリンピックが開催される毎に、開催国のイスラエル大使公邸で追悼式典を行なってきた。
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2004年のアテネオリンピックでは国際オリンピック委員会のロゲ会長が初めて追悼式典に参加、2012年のロンドンオリンピックではキャメロン英国首相が参列、2016年リオオリンピックではバッハ現会長の意向により初めて選手村で式典が行なわれ、国際オリンピック委員会が記念碑「記憶の石」を設置した。そして今回、東京オリンピックでは遂に開会式で公式な追悼式典が開催されたのである。
約半世紀後に実現したのは遅きに失したとも言えるが、東京でオリンピック史に大きな一歩を残したことは間違いない。
森山未來氏のパフォーマンス
開会式の中でひときわ異彩を放っていたのは、森山未來氏による哀悼のダンスだった。同氏はかつて、日本文化庁の文化交流使としてイスラエルに1年間滞在した経験がある。
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そもそも東京オリンピックは、コロナのために1年延期という異例の事態での開催だった。有観客なのか無観客なのかの議論が続く中、直前には大会組織委員会会長が交代を余儀なくされ、開会式の担当者が解任されるなどのゴタゴタも続いた。果たして完全な形で最後まで開催することができるのか。そうした危惧の中で始まったのが、この開会式だった。
森山未來氏のパフォーマンスは概ね高評価だったようである。以下、ハフポストの評を引用する。
残念な開会式で、森山未來のパフォーマンスだけは怨念と罪の全てを引き受け浄化していた(藤田直哉)
……(前略)そんな中、森山未來のパフォーマンスだけは、胸のすくような見事なものだった。コロナ禍における無観客で、全世界で400万人近くの死者が出ている中で行われる「祝祭」的なイベントという困難に本気で立ち向かった、非常に知的な誠実なパフォーマンスであった。
会場全体は青い、ベルベット色の照明で照らされる。会場アナウンスでオリンピック大会の最中に命を落とした人たちへの追悼メッセージが述べられる。特に、1972年のミュンヘンオリンピック中に殺害されたイスラエル選手たちを「象徴」として追悼すると語られる。「象徴」はこのパフォーマンス全体のキーワードだ。
暗い、荘厳な雰囲気の中、一部分だけにスポットライトが当たっている。丸い、苔を思わせる物体が少しずつ大きくなっていったかと思うと、倒れ、灰のようなものが散る。やがて徐々にそれは立ち上がろうとするが、また倒れしまい、それが人間だと知れる。やっとのことで立ち上がると、白い衣装だが、汚れているようにも見え、難民や浮浪者、被災者らを思わせるような出で立ちの、森山未來が現れる。表情は虚ろで、笑顔や明るさはない。
両手を広げ、少し上を向き、超越的なもの、霊的なものを「受け取って」「憑依させる」かのような動きをしたのちに、地面に向けて上半身を投げ出し叩きつけるかのような動きを繰り返したのち、正面に向かって土下座するかのように、うずくまる。この後、天皇陛下、IOC会長、首相らを含む会場の全員で黙祷が捧げられた。
パフォーマンスを巡ってはネット上で「怖い」「意味不明」などの反応もあったが、筆者は、今記述した一連の箇所は、このオリンピック開会式の他の失点を補って余りある素晴らしいものであると感じた。この箇所があることで救われたと言っていい。コロナ禍での無観客開催という窮地を、オリンピックの歴史に二度とないだろうパフォーマンスの舞台にすることで、その意味に変えてしまったのだ。
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このパフォーマンスは「五体投地」と呼ばれる仏教の礼拝形式を採用したものだという。ただ、イスラエル人への追悼というニュアンスから見ると、粗布を身にまとい灰をかぶって喪に服す聖書の預言者を彷彿とさせた。
ミュンヘンオリンピックで犠牲になったイスラエル人、コロナで亡くなった方々、そうした人々を東京で心から追悼することができた。この点は真っ当に評価されるべきである。