「パレスチナ社会の良心」ダジャーニ教授が語るパレスチナの未来
2019年に発刊された『わが親愛なるパレスチナ隣人へ――イスラエルのユダヤ人からの手紙』(ヨッシー・クライン・ハレヴィ著、ミルトス刊)には、エピローグとして読者からの反応が掲載されている。その感想を書いた1人ダジャーニ教授へ、同書訳者の神藤誉武氏がインタビューしたその要約を紹介しよう。
ダジャーニ教授は、アメリカで政治学と政治経済学の分野でそれぞれ博士号を修め、パレスチナ自治政府にも勤めていたので、他ではなかなか聞けない、学識と経験に基づいたパレスチナ社会の現状分析を語られた。今から4年以上前のインタビューだが、同氏はイスラム国(IS)のイデオロギーがパレスチナへ来ることに警鐘を鳴らしておられる。残念ながら、その懸念が今現実になりつつある。
エルサレムの旧市街にダビデの塔の博物館があるが、その道向かいにダジャーニ教授の親戚が経営するホテルがある。そこに招待いただき、対話することができた。
平和を推進する家系
――ダジャーニ教授の姓の「ダウーディ」はダビデ王と関係があるそうですね。オスマン帝国のスレイマン大帝(治世1521~1561年)が教授の先祖にダビデ王の墓の門守を命じたと聞きました。
教授 そうなんです。ダビデ王は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教で尊敬されています。ダビデ王の墓のある建物の二階にはイエスが弟子たちと過ごした最後の晩餐の間もあり、とても大切な場所です。
でも16世紀初頭、あの墓を管轄していたフランシスコ会は、他の宗教宗派の礼拝を認めず不寛容だったので、諍いが絶えなかった。私の先祖はイスラム教神秘主義スーフィーの著名な学者で、独自の学派を築いていましたし、他宗教にも寛容でした。それでスレイマン大帝が1529年、先祖にダビデ王の墓の管轄を任命し、他宗教の人々がそこを巡礼できるように命じたんです。以来、1948年までダジャーニ家が墓を守り続けた。それが「ダウーディ」という名前の由来です。
共存をぶち壊したアル・フセイニ
――ダジャーニ教授の和解や宗教間対話の取り組みは、ダジャーニ家の平和的共存を重んじる伝統に基づいているとも言えますか。
教授 その通りです。宗教間対話と寛容の精神は私の家族の遺産です。ダジャーニ家はエルサレムでも由緒ある家系で、平和的共存を推進することで知られています。
1938年、私の家族を代表するハッサン・シッキ・オマール・アル=ダジャーニ(1890~1938)は、アラブ人過激派の指導者ハジ・アミン・アル・フセイニ(1895~1974)に暗殺されました。アル・フセイニの不寛容で強硬な姿勢に反対して、ユダヤ人との共存を訴えていたからです。
――アル・フセイニと言えば、パレスチナ・イスラエル紛争の元凶のような人物ですね。彼は、ナチス・ドイツと手を組み、アラブ人に反ユダヤ感情を焚き付けるだけでなく、ユダヤ人との協調路線を支持する穏健派やアラブ人指導者を多数殺害しています。残念なのは、アル・フセイニの扇動や粛清で、2国共存を受け入れる穏健派のアラブ指導者がいなくなり、闘争派ばかりになったことだと思うのですが。
教授 アル・フセイニがあんなことをせず、融和策をとっていたら、イスラム教徒、キリスト教徒、そしてユダヤ教徒が共存していたイギリス委任統治時代初期の多元的な社会のあり方を継続することができました。
アル・フセイニの経歴は至って奇妙なんです。宗教的な資格は何も持っていないのに、他のイスラム教の指導者を出し抜いて、イギリス人によってエルサレムのイスラム教法典権威に任命されている。彼は過激派であって、平和の使者ではありませんでした。
もちろん、ユダヤ側にも過激派はいました。当時の状況は、1993年のオスロ合意以降の状況に似ているかも知れません。
アラファトの過ち
――パレスチナ社会でアル・フセイニを批判したり、かつてのアラブ人社会にいた穏健派の人がアル・フセイニによって抹殺されたことを公言したり、学校の歴史教育で教えたりするのは無理ですか。それで穏健派の正当性を訴えることができると思いますが。
教授 アル・フセイニは、今日のパレスチナ人社会では英雄視されていますから、彼のことを批判するのは非常に危険です。パレスチナ人社会で彼について否定的なコメントをしたり、彼の歴史的な役割を再検討したりなど、まずできない。
同じことはアラファトにも言えます。アラファトは、非常に多くの過ちを犯し、パレスチナ人がそのために多くの代償を払った。でもアラファトを批判できるようになるにはもう少し時間が必要です。
――アラファトの「過ち」とはどんなことですか。
教授 彼が1996年に大統領になった時、権力を共有することができなかった。それがアラファトの問題です。彼は、エルサレムを十字軍から解放したイスラム教徒の英雄サラディンの再来になりたかった。アラファトは優秀な人材を権力の座に就かせなかったのです。
彼は、ジョージ・ワシントンやネルソン・マンデラのようになるべきでした。彼らは民主制度の仕組みを打ち立てて大統領の任期が済むと、権力から離れました。同様に、アラファトも憲法と民主制度の遺産を私たちに残すことができたのに、しなかった。権力欲があまりにも強すぎたんです。
だから、未だにパレスチナ社会では任期の過ぎた政府が統治しているし、大統領が民主的に選出される仕組みもない。私たちは、パレスチナに民主制度を築けると期待していました。でも残念ながら、指導者が死ぬかクーデターで転覆されるまで権力を掌握する第三世界諸国のようになってしまった。
パレスチナ社会の問題点
――教授はヨッシーさん宛の手紙でパレスチナ人の「大いなる夢」という表現を使っていますね。
教授 パレスチナ社会は、未だに1967年の戦争直後の考え方、アラブ連盟があの年の9月に発表した「イスラエルとは和平を結ばず、承認せず、交渉せず」という声明を踏襲しています。イスラエルは「アラブ世界の心臓部に突き刺さった短剣である」と信じて、それを撲滅すべきだと。ヨルダン川から地中海までパレスチナを解放し、イスラエルの存在しないパレスチナ国家を築こうと考えている。それが「大いなる夢」です。それを子供たちは学校で教え込まれています。
西岸地区に住むパレスチナ人の若い世代は、イスラエルの刑務所に入りたがっているんです。そしたら、「同胞のために自己を犠牲にした」ということで英雄扱いされるし、パレスチナ政府の職につける。採用の資格は、どんな技能を持っているかではないんです。それに対しては誰も反対意見を言わない、言えないんです。
――では、どういう取り組みから始めたらいいと思いますか。
教授 占領を一刻も早く終結させるべきです。ただ、パレスチナ社会では、何でも占領やイスラエルのせいにする。自分たちに民主制度がないのも、独裁政治なのも、全部イスラエルのせいだと。でもそれは間違いです。
パレスチナ社会で、和解と寛容の精神を普及させる必要があります。日本では子供の頃から平和の大切さを教えるように、和解のスペシャリストを育成するようパレスチナの教育システムに組み込まなければならない。パレスチナの子供たちは、ユダヤ人やイスラエル人、アメリカや西側に対する憎しみや敵意を抱くように育てられています。私たちは自らを改め、平和の文化に転向しなければなりません。
イスラエル人との接触
――転向と言えば、ダジャーニ教授もかつては過激派で、イスラエル撲滅を呼びかけるファタハのリーダーでしたね。何がきっかけで寛容と和解の道を推進するようになったのですか。
教授 1993年、私は、癌を患っていた父の世話をするためにエルサレムへ帰ってきました。私はそれまでユダヤ人やイスラエル人と接することはなかったし、関係を持つのを避けていました。でも当時、父はイスラエルのハダッサ病院で治療を受けていて、その送り迎えを私がするようになった。
私はそこで心打たれたんです。ユダヤ人の医師たちは、父をパレスチナ人としてではなく1人の患者として治療してくれていた。病院には他にもパレスチナ人の患者がいましたが、イスラエルの医療システムのもとで平等に治療を受けていました。それは私にとって衝撃的でしたし、葛藤を抱くようになりました。イスラエル人を人間として見られるようになってしまったからです。
1995年に父は亡くなりましたが、治療のお陰で5年間生き延びることができました。それは、イスラエルの医師たちが与えてくれた5年間でした。
それから数年後の金曜日の夕方、母、弟、弟の娘の4人で、テルアビブで夕食をしていたら、突然母が喘息の発作を起こしたんです。母の吸入器は空でした。安息日だったので近所の店は閉まっており、車でエルサレムに帰ることにしました。道中、喘息の発作は酷くなるばかりで、車を運転していた弟は、ちょうどベングリオン空港の近くを走っていたので空港に向かうことにした。
私はイスラエル人が助けてくれるとは思っていなかった。でも、空港の検問所の職員に母の容態を説明したら、直ちに医療チームが駆けつけてくれ、母を蘇生するために1時間以上あらゆる手を尽くしてくれた。さらには救急車を呼んで、近くの軍の病院に母を運んでくれましたが、残念ながら病院に着いた時には、母は亡くなっていました。
でも、それは私にとって覚醒の経験でした。父の死の時よりも強烈でした。私は、相手側の中にある善きものを見たのです。それで、彼らと共存できる、いや、彼らと和解し、共存しなければならないと確信したのです。そして、「誰もが善きものを持っている。その善き部分を見出だして、それが現れるために努めなければならない」という私の信念を強めてくれました。
ついこの間も、夜の8時頃、弟を乗せて車を運転していたら、タイヤがパンクしたんです。外は土砂降りの雨でした。車を脇に停めたけれども、車載ジャッキを持っていなかった。そしたらイスラエル人の車が停まって、若い男性が声をかけてくれました。雨の中、タイヤの交換を手伝ってくれ、去って行きました。彼にとって、私たちがアラブ人だったことなど関係なかった。あの青年はただ人を助けたかっただけでした。
こういう些細なエピソードを、お互いの社会でもっと頻繁に伝えていくことが必要です。
パレスチナ国家の未来
――教授は、パレスチナ国、イスラエル国、ヨルダン王国の連邦案を考えていると聞きました。
教授 グローバル化の時代に小さな国が生き延びるのは困難です。パレスチナ人とヨルダン人には親戚が多いし、ヨルダンの政治体制は多元主義に基づいているから共存しやすい。ヨルダンではレバノンやシリア、イラク、パレスチナから避難した人たちが住んでいます。ヨルダンと連邦を結んだらパレスチナ国家にとっても有益だと思っています。この連邦機構にイスラエルを組み込むこともできるはずです。
――それはどちらが先ですか。パレスチナ国家の独立ですか、それとも連邦ですか。
教授 まずは、世俗的で民主的なパレスチナ国の独立が必要です。パレスチナ人としての独自のアイデンティティを確立することが大事です。それと並行して、イスラエルとの信頼関係を築くための期間も必要です。そしてやがてはヨルダンやイスラエルと連携して、経済、安全保障、環境など各分野で協力関係を築けたらいいと思います。
――何か特定のモデル、例えばベルギー・オランダ・ルクセンブルクの三カ国連合ベネルクスなどをイメージしているのですか。
教授 いや、他のモデルをコピーする必要はありません。ヨーロッパとは文化も環境も異なるから、自分たちに合った独自のモデルを考案したらいい。
それは、パレスチナ側が南アフリカのアパルトヘイトを持ち出して、イスラエル批判をしていることにも言えます。あれは間違いです。またイスラエルに対するボイコット運動(BDS)も紛争解決のためにはならない。イスラエル人もパレスチナ人も、互いにビシネスを通してそれぞれの益になっている。紛争解決に一番大切なのは信頼関係の回復です。
ボイコット運動や憎悪を駆り立てていては、絶対に信頼関係を築けない。パレスチナ人に必要なのは、イスラエル反対・パレスチナ支持の立場ではなく、和平支持、和解支持の立場をとることです。
宗教間対話の使命
無知に根ざした敵意・憎悪
――教授は、和解には宗教間対話が必要だと考えているようですが、どんな観点からそう思われるのですか。
教授 敵意や憎悪は無知に根ざしています。だから、無知を克服しなければならない。これはユダヤ人にもパレスチナ人にも言えます。
パレスチナの大学では、イスラム教については学べても、他宗教についてはきちんと教えてもらえない。また、イスラム教の教育も、平和的な視点からではなく、他宗教の真理を否定し憎悪を抱くような教え方をしています。例えば、ユダヤ人が預言者(訳注・ムハンマド)を毒殺した、などです。全くのナンセンスで、そんな主張を証明する歴史的な証拠はありません。
また、アラファトはユダヤ人の神殿はエルサレムではなくイエメンに建てられていたと信じていた。だから、宗教者同士が教育に関して対話する必要があります。まずは、各宗教宗派の指導者たちが他宗教のことを学ぶこと。特に、イスラム教の長老や指導者が取り組むべきです。
――宗教間対話をしても「話し合い」の次元で終わるから、無意味だという人もいますね。
教授 でも、宗教間対話をしないと了見が狭くなります。かつて私はエルサレムYMCAの執行委員会のメンバーでした。ダビデの塔の博物館長もメンバーでした。私はあの博物館を一度も訪れたことがなかった。それで彼が私に、「うちの博物館はあなたのホテルのすぐ隣にあるのに、なぜ訪れたことがないんですか」と尋ねてきたんです。私は、「あの博物館は、エルサレムの歴史におけるイスラム教の文化や役割について紹介しないからだ」と答えました。
そしたら、彼が博物館に特別に招待してくれました。展示品を紹介するガイドもつけてくれて。行ってみて驚きましたね。イスラム教の様々な時代がきちんと展示されていた。自分にとって宗教間対話の大事な教訓でした。自分の目で確かめもせず、「あの博物館はイスラム教の歴史を無視しているからボイコットするべきだ」という噂を信じていたんです。
イスラム国(IS)がパレスチナに
――パレスチナ社会に関して、教授が一番懸念していることは何ですか。
教授 それは、イスラム国(IS)がパレスチナに来ることです。イラクとシリアの次はパレスチナかも知れません。
――ISがどうやってパレスチナに来るんですか。
教授 ISの過激派たちがパレスチナに来るのではなく、そのイデオロギーが普及されることです。イデオロギーに境界線はないですから。
匿名の理由
――ヨッシーさんがパレスチナ人から受け取った返信の多くは匿名を希望しています。それはなぜだと思いますか。
教授 現状に希望が見出だせないと、人は悲観的になって過激派を支持するようになります。今日のパレスチナ社会では、イスラエル人に協力する人を猛烈に攻撃します。だから、返信を書いた人たちは自分がイスラエル人と共謀する裏切り者と見なされるのを恐れているんです。職を失うだけでなく、下手すると自分や家族に命の危険を及ぼしかねない。
ホロコーストに学ぶ
――教授は2014年3月にパレスチナ人の学生たちをアウシュヴィッツに連れて行って、ホロコーストについて教えましたね。それで職を失い、身辺が危険になった。そのようにアラブ社会のタブーを犯すような行為をして、怖くないんですか。
教授 あのアウシュヴィッツ訪問は前代未聞のことだったので、アラブ人コミュニティでは大騒動になりました。アウシュヴィッツから帰ってきたら、デモ集会が開かれたり、脅しを受けたり、車を燃やされたりしました。あれから5年になりますが、未だに身の危険を感じながら生きています。でも、自分がするべきことはしなければならない。神の計画がある。私は使命を全うするまでは死なないと思っています。
――現在取り組んでいることは何ですか。
教授 ドイツのフレンスブルクにあるヨーロッパ大学と協力して、和解や共感、宗教間対話、調停、紛争解決、和平に関する博士課程のプログラムの設立に取り組んでいます。アイルランドや南アメリカのように、紛争が解決する時代を待つのではなく、紛争の最中にあって平和と和解と寛容の文化を教育したいのです。
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