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小さいころの記憶

重い腰を上げて資格試験の勉強をしようと”キャリア構築インタビュー”という動画を見ていた。昔の記憶等々を元に自己概念を構築していくというようなもの(だと思っている)。
実際にやってみようと思ったのだが、昔の記憶を思い出すところで躓いてしまい、なかなか先に進まない。なぜなのかと思って動画を停止し、これを書きながら整理している。

小さいころの記憶でなにげないものと言えば、幼稚園で鬼ごっこをしていた時に逃げるのに疲れて隠れており、これはもはやかくれんぼだなと思ったことや、畑にいくのに2L×4本のペットボトルに水を入れて重いなと思いながら歩いていたなとかいう、この2つのエピソードくらいである。そのほかの記憶は、本当の記憶というよりも写真で見たり周囲から話を聞いたりして作りあげられたものである気がする。

他人が幼少期の話をよくしていて、なぜそんな昔のことを鮮明に覚えているのか?と思ったことがある。両親からも、昔こういうことがあったねという話をよくされていた。でも全く覚えていない。

今ほんとうに記憶はないのか?と思い返してみると、断片的な記憶だけはいくつか思い出すことができた。
・母親が急に部屋に入ってきて暴れたり叩かれたりしていたこと。
・ピアノを弾いていたら急に父親が怒鳴り込んできたときの光景。やめたくて仕方がないけれど、逃げる場所がないのでトイレにこもって泣いていたこと。
・夜、急に母親に車に乗せられてどこかへ連れていかれたこと。
・死ぬときにこの瞬間を思い出すことはあるのだろうかとベッドでぼんやりしていた時のこと。

無理やり思い出そうとすると暗い記憶ばかりよみがえってくる。つらかった出来事は現実に起こったことだと認めたくないがために、忘れたと思い込んでいただけかもしれない。自分の家族はごくふつうであると信じ込んでいたのも防衛機制からくるものだったんだなと大人になってわかった。なお、防衛機制はいくつも種類があるが、このケースは否認というらしい。

家族を悪者に仕立て上げていることへの罪悪感や、今考えていることは自分の認知がゆがんでいるのではないかという思い、この状況に陥ったのは(陥ったと表現してしまうことも含めて)自分のせいであるという思考が消えない。周囲の人や行政が認めてくれて少し楽になったが。

わたしは幸運にも自分の力で生きていける大人になった。もう自分の力で衣食住を整えられるし、なにより笑うだとか泣くだとか感情を表現する行為も、だれの顔色もうかがわずに自分の心に従って行うことができるようになった。
それどころか自分の力で行きたいと思う場所に行けるようになった。それが言葉の通じない異国の地であっても。

周囲の人が驚くようなことであっても、やりたいと思ったことをするのは「もうわたしは自分の力で生きていけるようになった。なにもできなかったあのころとは違う」という実感がほしいからかもしれない。

もう自由になれた。
自分に残された問題は、このように生きている自分自身を自分で認められるようになれるかどうかだけ。

この問題を解決するのには今まで生きてきた以上の時間がかかるかもしれない。
けれどもこの人生を歩んできたことを悔やむ気持ちはないし、だからこそ今の自分がいると思えるので、これからも前を向いていけると思った。

大泣きすることがあってもこうやって自分の力で自分の思考を整理して前を向けるようになったのは大成長だと思う。

まあこれを気分の波があるから気分障害だと言われればそれまでなのだが。フハッ!

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