『生殖記』を読んだ

『生殖記』を読んだ。

朝井リョウさんの著書は全て読んでいる。
「キャラメルの包装紙に小説を書く」という企画があった時も、集めていた。
小説もエッセイも全て読んでいる。インタビューも読み漁ってラジオも聴いていた。
こうなってくると、この人の作品と、それ以上に「この人」のファンになっている。

「人」のファンになる事はそれほど多くは無い。
まず、作品から入ってその作品が面白くて読み漁り、そこから「これを作る人はどういう人なんだろう」と興味を持ち、(表に出してくれている分の)人間性を知っていき、そのうえで好きになる。
そこまで行って「この人自体はそこまでだから、作品だけを追うようにしよう」となる事も多いが、朝井リョウさんに関しては完全に行き切った。
今までもこれからも「一番好きな作家」として挙げていくと思う。

わたしが思う朝井さんの凄さは最初から一貫してる。
物事を客観的な視点で見る事ができる、という部分だ。
デビュー作の『桐島、部活やめるってよ』は高校を描いた群像的だが、教室の天井からカメラを置いたような視点に驚いた。
著者は一人のはずなのに、数多くの人間を事細かに描いていた。

その後は客観視を発揮しつつも、キャラクターや物語に重点を置いた小説も数多く発表し、「次はどういう小説なんだろう」とワクワクする日々を過ごしてきた。

『死にがいを求めて生きているの』あたりから、読む時に緊張するようになった。一番好きな作家なのに本を手に持ってため息をつく。
ちなみに、同じぐらい好きな中村文則さんの本も緊張する。
緊張の種類は違うが、もっと気楽に読みたいとずっと思っている。

朝井さんの場合は、このあたりから客観視の鋭さがより増していったように感じる。それまでは物語の面白さを加速させる装置だったものが、その装置そのものに自分が突き刺されることも増えてきた(明確に刺されたのは『何者』が初めてだった)。

「刺されたらどうしよう」という怯えでは無いし、何も「悪意を持って刺す」とか「正義のために刺す」という事でもない。
「刺す」というより「投げかけ」と言った方が近いかも知れない。

「私はこう思いました」「(あなたはどうですか)」
という投げかけを感じて緊張するのだ。
自分の何かが変わってしまうかも知れない。それが自分にとって良いか悪いかも分からないままに。

その感覚が極限に達したのが『正欲』だった。

当時、夜中から朝にかけて一気に読んでこの文章を書いて、それでも興奮していたので山に登った。
それぐらいしないと、この投げかけのエネルギーを消費できなかった。
この作品は投げかけを更に効果的にするために、物語が構成されていったように感じる。つまり、物語としてもとても面白かった。

前置きが長くなったけど、ここから『生殖記』の話になる。

※少しネタバレを含むので、読む予定の人は引き返してください。この本はタイトル以外、何も情報を入れない方がいいです。





公式サイトに「自分の中のルールを全て撤廃して書きました」とある。

そのルールが何かは分からないが、語り手の事は関係しているだろう。
発売以前から広告で語り手についての言及があり「これ、ネタバレじゃないか?」と思いながら読んだけど、最初から一貫してネタバレという感じでも無かった。
詳しくは書かないが、ヒトよりも、より客観的に語る事ができる語り手であるという事は言える。

この語り手の正体は置いておくが、とにかく終始物凄い高い視点から話は進んでいく。教室の天井どころではなくはるか上空からのカメラと、手持ちのカメラの2台持ち、という感じだった。
定点とズームを同時に行なってる。

人が無意識に(または程々意識的に)行っている全てを詳細に少し距離を取りながら、言語化している。
言語化が上手い、どころではなく「あなたも人間なのに、なんでここまで人間の事を距離を置いて見る事ができるんですか?」という疑問が湧き上がる。
そのような感覚になる事は、今までもあったが、今回はけた外れだ。

『生殖記』には大きな物語が無い。
物語、というと語弊はあるが(確かに、物を語ってはいるので)、例えば同じように人間や社会について客観視して描いた『正欲』に比べると、大きな展開も衝撃的な終わり方も無い。
だからこそ、現代に生きる人間の現状や問題が浮かび上がる。
浮かび上がる、というか書いてある。
何かを察したり思いを馳せる前に、全て書いてあり、そのうえで何かを考えさせるという形になっている。有無を言わせない。

朝井さんは『武道館』が出た頃のインタビューで「純文学みたいと言われる事があるけど、自分はエンタメ作家だと思っている」と語っている。
その言葉通り、鋭い視点を持ちながらもそれが基本的にはエンタメとして機能している(『世にも奇妙な君物語』なんてエンタメ全開でだ)。
『正欲』も広い意味で捉えればエンタメだと言えるだろう。
エンタメの定義は人それぞれだが、わたしは「物語を追う喜びがある」事だと思っている。
朝井さんの小説を読む時は、どれも「どうなっていくんだろう」という喜びと共にページを繰ってきた。
最後の最後で「うわー!」となってしまうものも沢山ある。

しかし、『生殖記』にはそれが無い。
「いや、アレとかアレとかあっただろ」と言われればそうだが、今までならもっと大きく展開していた。絶対に。なぜならそれがエンタメだからだ。

今作の主人公は動かない。
動かないために動き、作中に内面や行動が大きく変化する事がない。
主人公が変化する事は、エンタメの鉄則だ。最初から自分も周囲も何も変えない主人公は中々見た事が無い。

邪推だが「エンタメとして描くためのルール」を撤廃したのではないだろうか?
それほど、不自然なぐらい動きが無かった。
動きがないからこそ、読者は語り手の語りに最初から最後まで等間隔で付き合う事になる。
考えざるを得なくなる。

『正欲』ではエンタメとして成立するからこそ「こういう物語もあるよね!多様性多様性♪」と認識する読者もいただろう。

今回はその感想も使えない。

投げかけから逃げられない。

そして、その投げかけは10年前でも10年後でもなく「今」受け取らないといけない。どう足掻いても「今」を生きる私たちの話だからだ。

あと、この書き方だと「ページを繰る手が重くなる感じ?」と思われるかもしれないが、全然そんな事は無い。夢中になって読み進めた。
面白い、よりも、凄い、という気持ちが最初から最後まで持続するのは本当に凄い。



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谷口つばさ
頂いたサポートでドトールに行って文章を書きます