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禅語を味わう...015:看看臘月盡

看よ看よ、臘月(ろうげつ)盡(つ)く...

 (看看臘月盡)

本年最後の『禅語を味わう』となりました。
本年一月からこのnoteをはじめ、何とか最低月一回のペースを守りながら続けることができました。
最初は歴史文書の紹介をしていたのですが、振り仮名が必要な文章が多など、使い勝手が今ひとつということがわかり、途中から禅語の紹介に切り替えました。
ともかく始めること、そして続けること、と思っておりましたが、ブログ、HP等とのかかわりもあり、どのようなものを書いて良いのやら、なかなか勘がつかめず、いまも若干迷走の感があります...
しかしながら、それでも投げ出すことなく続けることができましたのも、ひとえにお読みいただき、サポート、フォロー、コメントを頂戴するなど、さまざまなかたちでコミットをいただきました皆さまのおかげです、どうもありがとうございました。
そして、来年度もどうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、年も押し詰まっての今回の禅語は、

看よ看よ、臘月盡く...

です。
「臘月」とは12月のこと...
「臘」には「繋ぎ合わせる」という意味があるそうで、新年と旧年の境として「繋ぎ」となる月だから「臘月」というのだといいます。
あるいはまた、「臘」とは、中国の古い習慣で、冬至の後の「第三の戌(いぬ)の日」に行われる祭のことを指し、このお祭りでは猟の獲物が神や祖先に祀られるのだといいます。つまり、「臘」は「猟」に通じているというのです。
それはともあれ、この禅語、「看よ看よ、臘月盡く...」と聞くと、わたしたち禅僧には

さあさあ、見ろ見ろ、十二月ももう終わりじゃ...
こりゃっ、お前さん!ぼさっとして、のんべんだらりと何をしておるんじゃっ! もう12月も終わりじゃっ! ぼやぼやしとったら、何にもならんで終わってしまうぞっ!

そんな師匠の罵声が、耳許で聞こえてきそうです。

「臘月」と言えば、禅宗では何といっても「臘八大攝心(ろうはつだいぜっしん)」です。
ご存じの方も多いかと思いますが、今から二六〇〇年ほど前、徹宵の坐禅をしていた修業時代のお釈迦様が、明け方の「明星(みょうじょう:金星)が光り輝くのを見て、「お悟り」を開かれた...これが「仏教」の、そもそもの始まりです。
禅の修行僧たちは、今でも、そのことを記念し、感謝と思慕の心を持って、毎年12月1日からの一週間を一日と考えて修行します。そして、一週間の修行の後、日付が変わったその後も、さらに夜が明けるまで、「鶏鳴(けいめい)の坐」といって、一番鶏が夜明けを告げるまで坐り抜くのです。そうして初めて、八日の朝を迎えたそのまま、「成道会(じょうどうえ)」お釈迦様の修行成就をお祝いする法要を行います。


「一週間を一日と思って」修行に励むわけですから、不眠不休、「命取りの大攝心」と言われる厳しいものです。「臘八大攝心」は、いわば一年間の修行の頂点、ピークであり、クライマックスなのです。
しかし、そうは言っても、この「臘八大攝心」で過酷な一週間を集中的に経験できれば、お釈迦様のような境涯にまで達することができるのか...残念ながら、そうはいきません。
よく、「死ぬ気になってやれば...」ということを言いますが、ただ死ぬ気になって、がむしゃらにやれば、ことが成就するかと言えば、そうはいかないものです。
もちろん、死にもの狂いで取り組まなくてはどうにもならないような世界は、確実に存在します。しかし、だからといって、ただ力ずくで強引に取り組めば活路が開かれるのかといえば、それは違うのです。
厳しいことを言えば、力ずくで開かれる世界というのは、所詮はそれだけのものでしかありません。本当に大切なことは、時間をかけて、気を抜くことなくこつこつと、地道に積み重ねていくことです。
大きな事は、誰にも気が付かれないような、一見小さな事柄の積み重ねの中から生まれます。誰もが見向きもしないような、いや、それどころか嫌がるような、気が遠くなるほどの、ささやかで小さな積み重ねがあって、初めて「死ぬ気になってやる」ような蛮勇の力が生きてくるのです。

道場の修行は、この「臘八大攝心」はもちろんですが、それを除いても、大変に厳しいものです。
毎日の生活も修行が最優先...もちろん、それは当然のことです。何しろ、修行道場というのは、生活のすべてを修行に捧げるためにあるのですから。
すべてが修行中心の日程となっていますから、いつも睡眠不足。
毎日毎日肉体労働で、くたくたです。夏は暑く、冬は寒い。坐禅中はひたすら眠いばかりの上、足が痛くて仕方がない...
それに加えて、毎月一度は「大攝心(おおぜっしん/だいぜっしん)」という、集中的な修行の期間があります。一年に一度の「臘八大攝心」ほどではないにしても、やはり辛い行事であることに変わりはありません。
普段は、日中はひたすら掃除と托鉢、そして「作務(さむ:修業としての労働)」ばかりで、じっくりと腰を落ち着けた十分な坐禅ができないから、月に一度一週間、一日中しっかり坐禅ができる...そういう実に得難い、有り難い期間なのだ...そのように頭ではわかっていても、一日中坐禅をしていれば、足の痛みはいつもにも増して強烈ですし、この期間中は、当然いつもよりも坐禅の時間を延長して、睡眠時間を削っていきますから、眠気の襲い方も凄いのです。お恥ずかしいことですが、有難いというよりも、ただただ辛い...そんな思い出ばかりです。

しかし、禅寺、あるいは禅の修行道場と言えば、いつもこの「厳しさ」ばかりに目が行って、「いかに大変か」ということだけが強調されがちなのは、実は余り良いことではないのです。
ただ、辛く過酷な修行をし、まねができないような凄いことをすればそれが本当に「修行」になっているのか、といえば、そのようなことはまったくないのですから...
確かに修行には「辛抱」「忍耐」が必要です。しかし、ただ耐え忍び、頑張りを見せるだけでは、十分ではありません。
まずは修行に取り組む動機や姿勢がしっかりとしていなくてはなりませんし、進んでいく方向が真っ直ぐでなくてはなりません。何かを成し遂げようと思うならば、禅寺の修行に限らず、ただ「耐え忍ぶ」だけではなく、その辛いところから、更に自分の足で前へ前へと踏み出していく「頑張り」「踏ん張り」、それも勢い任せの無闇矢鱈ながむしゃらさではなく、冷静に方向性を見極め、粘り強く現実を見つめて、自分の苦手、弱点もしっかりと計算に織り込んでカバーしていく智慧もなければ、どうにもならないのです。
ただがむしゃらに、勢いだけで突き進む...一見素晴らしい姿に見えるのですが、空回りに終わったり、ただの我慢大会になってしまいがちなのです。そんな風にして、誰もが認めるような過酷な試練を己に課しながら、道半ばにして身体を壊し、あるいは精神的におかしくなり、あるいは集中の糸を切らしてしまい、修行そのものに絶望して、自身の努力を台無しにしてしまった仲間は山ほどいます。修行は純粋な直向きさだけで成就するような世界ではないのです。

さて、看よ看よ、臘月盡く...
このように言うと、一年の締めくくりであるこの12月だけが特別であるように聞こえてきます。もちろん、それは間違いではありません。一年一年の区切りをしっかり持つというのは、とても大切なことです。
しかし、一年の締めくくりの12月に、本当に稔りのある時を過ごそうと思うのであれば、その前の11月も、10月もしっかりと過ごしていなくては到底かないません。そして、その月その月をしっかりと締めくくることができるためには一週間一週間、一日一日、一呼吸、一呼吸...一瞬一瞬、一刹那一刹那、些細なことであっても細心に、丁寧に、真剣に、隅々まで集中して神経を行き届かせなければ、やはりうまくはいかないのです。
「臘八大攝心」をしっかりと経験することのできる修行僧の立場にあっても、ただ「臘八」だけを死にもの狂いでやって、それだけで終わってしまっては、所詮は付け焼き刃のようなものでしかないのです。
年の瀬を迎えて、一年の締めくくりを付けるために頑張る...
そのようなことでは、本当は全然、足らないのです。そうではなく、正月の一日から、決意も新たに走り始める...そして、正月の朝からしっかりと走り始めることができるように、「看よ、看よ、臘月盡く」と、自分を鼓舞していくべきなのです。
ですから、看よ看よ、臘月盡く...この言葉は、何も12月だけではありません。正月一日から...毎日毎日が、一刻一刻、一瞬一瞬が「臘月盡く」でなくてはならないのです。そうした心で受け止めて、初めてこの言葉は生きてくるのです。
私たちも、新たな一年の始まりを今から準備するつもりで、決意も新たに、改めて「看よ、看よ、臘月盡く」と年の終わりを迎えたいものです

写真:工藤 憲二 氏

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