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【筑後 大塚氏の研究06】絵下古賀村の謎を解く


 筑後の八町牟田と絵下古賀は、基本的には戦国期から一体のエリアとして認識されていて、かつ佐賀の龍造寺の家臣団が駐留するためにやってきたことがわかりました。

 問題はその時期です。古い記録では「天正年中」と書かれていますが、龍造寺家臣が筑後川を渡ってやってこれるのは最大でも天正15年までということも前回わかりました。

 今回はその期間が絞り込めないのか、検討してゆきます。

 実はこれまたおもしろい話が見つかりました。

 八町牟田にあるお寺「西元寺」さんの由緒というものがあって、

「龍造寺隆信の家臣、木本右京之進(剃髪して了念)の開基で、天正5年に創建」(三潴郡誌)

というのです。またまた出ました!龍造寺の家臣(笑)


 前回の話で、八町牟田と絵下古賀は、天正年間に龍造寺隆信の家臣たちがやってきて駐留したのだ、ということがわかりましたが、西元寺も似たような事情だとわかりました。

 しかし、この天正5年をそのまま受け止めるのは早計で、「大木町史」には

「木本右京之進が天正5年に創建したのは(柳川の)矢ケ部原で、のち200年ほどして現在地に移転」

ということも書かれているのです。

 つまり、龍造寺が筑後支配をして家臣をつぎつぎに送り込んだのは天正5年前後、と判明するものの、西元寺については、位置が異なるということなのです。

(これはどうも正しいらしく、現在西元寺の檀家は浄土真宗なのですが、江戸時代の墓碑におなじ家で浄土宗のものがあり、つまり、「ある時代は浄土宗で、その頃は西元寺が八町牟田にまだなかった」ということと合致するのです)


 ところで絵下古賀村にやってきた「隠岐」になれる可能性がある「小副川氏」とはどんな氏族なのでしょうか。彼らはもともと佐賀市富士川の小副川という地域から出た氏族で、神代勝利が三瀬に入る以前からの土豪だったようです。

 もともとは東国の侍で、おなじく三瀬の「松瀬氏」らとともに下向したとされています。

 小副川氏はのちに佐賀藩士としても続きますから、龍造寺家臣としては十分に資格がありそうにも感じます。

 しかし天正4年に小副川隠岐守が討ち死にした件については、肥前草野氏との近隣地域における内紛であり(もともと草野と神代は仲が良かった)、この段階で小副川隠岐が死んでいることから、筑後とは無関係と思われるのです。

 さて、神代長良が龍造寺家臣となったのは、永禄8年の父、勝利の死以降とされていますが、その団結を決定的にしたのが、鍋島直茂の甥(家良)を養子に迎えたことでしょう。

 それが天正7年のことで、鍋島氏の犬法師丸が神代家を継ぎ、関係が強化されます。

 そこから長良の死が天正8年、蒲池氏滅亡が天正9年、隆信死亡が天正12年なので、ちょうどこの間絶妙な時期に「隠岐」は筑後入りしたと考えられます。

 かなり絞り込んで、「天正5年〜天正12年」ごろとしてよいかと思います。

 龍造寺隆信の動きを見ると、天正6年に大友氏が島津に負けたのをいいことに大友の領地を席巻し、天正8年までに筑前、筑後、肥後、豊前あたりに地盤を築きますから、これもほとんどドンピシャで話が合致することになるでしょう。


 こうした流れを総合すると、

「神代長良の家臣であった大塚隠岐が、天正5〜12年頃に絵下古賀村にやってきて、定住することになった。その場所が隠岐屋敷である」

ということが仮説としては成り立つことになるわけです。

 そしておそらく、益田氏もその前後に一緒にやってきた可能性が高いということになるかもしれません。

 大塚隠岐は、神代長良と同じ世代の人でしょうから、天正期にはほぼ引退モードだったと思われます。古賀伊豆が大庄屋としてその後も続いたのに対して、おそらくは小領主として帰農していったのではないでしょうか。


 次回は隠岐屋敷の謎に迫ります。


(つづく)





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