純粋経験と主客未分とロールプレイング
主客未分とは主体である自己と客体である対象が分離していない状態を意味する。
目の前にあるリンゴが自己と一体である経験は想像が出来ないでしょう。
それは目の前にあるリンゴを見ているのでは無く、言葉に変換して他者に伝える必要から外部に放り出された表象であって、純粋経験の段階では表象も言葉も必要ないのである。
本来は他者が居なければ反射的に唾液が出るだけの反応で終わるのであり、それで用がすむのである。
動物は食べられるものであるか害には成らないかと調べて食べるだけである。
それを何時に食べるか、如何にして食べるか、誰と食べるかと考える必要から共通言語が必用になるからである。
それにしても人の心と一体になるにはそうは簡単にはいきません。
そこで工夫が必要になり、他者の役割を演じる方法が考え出されました。
物と一体に成りきるいいます。
これが捨てたものでは無く一般には知られていませんが、古来から禅では重宝がられていると聞く。
ところが最近ではロールプレイング(疑似体験)と名前を変えて各方面で活用されています。
不思議なもので名前を変えると効果が有るものとして一躍有名になりました。
型から他者と一体になる方法は古来から古典芸能、武術に取り入れられています。
芸術はもちろん学校や企業の意思疎通や相手の立場に立って感じ考える訓練に用いれれている。
考えるだけでは無く自ら行って実感するのである。
相手の立場に立てば自ずから自己は存在していないのである。
親の背中を見て覚えるとはよく言ったものである。
言葉で話せない語ることが出来ない微妙な行動は役割を演じて学習するのである。
教えなくとも真似ておぼえる。
その時は親の行動を意識せず、真似ているとも思わず覚えている。
いわゆる主客未分状態でおぼえているのである。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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