モテなさ杉晋作
「面白きこともなき世を面白く」
高杉晋作 辞世の句
今回はコレの感想
これの右の本
この本は非モテを脱する本ではない。そのため、どうすればモテるか、などは一切書かれていない。
モテないことの苦しさ、ひいては人生の生きづらさにまつわる本でござそうろう。
当事者研究とは、ざっくり言うと悩みや病気を抱えた人たち自身が自分達の悩みや病気を専門家と共に研究していくものだ。
この本のメンバーは定期的にあつまり非モテにまつわること、そこから敷衍して生き辛さのことを話す。
自分も『非モテ』の自覚があるので「わかるわかる」と思う部分が多かった。
そこで、自分も自分なりに自分の『非モテ』について考えてみようと思う。つまり、自分なりのプチ当事者研究だ。リンカーン風に言うのなら「非モテ of the みょーん by the みょーん for the みょーん」である。(みょーんにTheがつくのかは微妙なところだ)
俗に三大欲求が人間にはあると言われる。食欲、睡眠欲、そして性欲。
恋愛はこの性欲に関わってくることが多い。もちろん、全ての恋愛に性欲がついて回るわけではないし、恋愛には性欲以外の側面がたくさんある。好きな人と30秒ハグすると幸福をもたらす脳内物質のエンドルフィンがドパドパでるらしいし、『キン肉マン』のブロッケンJr.の名言「ふたりというものは良いものだ。楽しいときは2倍楽しめる。そして苦しいときは半分で済む」にもあるように、特殊な関数を持ち合わせているのである。
とはいえ、性欲と恋愛の相関が低いとも言えないだろう。そして性欲には秘密性があると思われる。ミステリーなのである。一体、異性の身体はどうなっているのか?世間で言われる快楽とはなんぞや?そうしたミステリアスさが我々を異性の身体や地震の快楽への『世界!ふしぎ発見』に誘うのである。
こうした不思議は保健体育やアダルトビデオではいけない。ディスカバリーチャンネルを見たり、グーグルアースで見たりしただけで「俺はアマゾンの恐ろしさを知っているぞ……!」と言ってもダメなのである。ちゃんと現地に赴き、自らの体験としてしないといけない。現場は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きているんだ!とはよく言ったもので、耳年増が許されるのは限界がある。多くの人はおおよそ、30歳に至るまでにちゃんと現地に赴けるようだ。少なくとも日本の男性における社会的境界線はここにあると言っても良いだろう。ネットではこのラインを超えると「魔法使いになれる」という柔らかい言葉で、しかし実状は痛烈にアマゾンに赴かなかった人を揶揄している。童貞は童帝になる。英語で言えばチャイルド•エンペラーだ。Mr.Childrenに通ずるパラドックスを感じさせる。
セクシャルな話で上手いこと話に乗れないと、スーパーヒトシくんはボッシュートされてしまうし、笑われる。
幸い、みょーんはモテないながらもAmazonに赴く機会をいただけたが、もし自分が魔法使いになってしまったとき、生き辛さを強烈に、猛烈に、苛烈に感じるだろう。
しかし!まだあるぞ、恋愛の壁。
結婚•子供の壁である。
非モテ人間が異性との関わりに悩んでいる中、周りは続々と結婚、妊娠、出産してくる。一緒に飲んでいても、話題が個の話から子の話になり始める。セックスを知らないの後には人と共に住むことを知らない、子供を育てることを知らない、と言うフェーズに入ってくる。家族を築くことの酸いも甘いも知らないのである。
この辺りまで考えて、ふと気になることがある。
自分がなぜ恋愛で苦しいのか。これまでを振り返ると「社会によって生み出されている苦しさ」であるように思われる。周りに遅れた自分、そうした自意識が苦しい。でも、本来はこんな悩みだっただろうか。
好きな人に振り向いてもらえない、なんなら嫌われる、好きな人が他の男と付き合う、あるいは、仲良くしてくれるのに男女の関係にはなってくれない。そうしたことが「苦しかった」はずなのに。
いつから自分の苦しさに社会の目によるものが入ってきたのか。
非モテは苦しい。毎日イチャコラしているカップルを見つけては「貴様らがイチャコラしている間にアフリカで何人の人が死んでると思っているのだ?」と妬み、故に「カップルは悪」と全く関係のないロジックを展開しては「本当に悪なのは俺の性格と顔か……」と反省する毎日。
この本には「一発逆転の発想」というのが書かれていた。これは非モテの人が「彼女ができれば」「モテさえすれば」自分の今までの人生が一発逆転し、良い方へ向かうと言う空想、酷いとそうした妄想のこととあった。非モテは彼女やモテに自分の理想の人生を投影する。自分にある理想をスクリーンに投影してしまうからこそ、自分に残るのはその理想の残滓に過ぎず、悪き今が人生のみ残ってしまう。それが、辛い。
最後に、これは非モテに関係あるかわからないが、自分の洞察の一つとしてあげる。
本当に最近、気がついたことだが、自分は自分のやりたいことをあまりしていない。我慢していたり、自信のなさからできていないことに気がついた。それに気がついてから、自分がしたいことをしようと思うようになった。それは他人には些細に見えることかもしれない。例えば、気になる子と雑談でもいいからしたいという気持ち。これも若いときは「迷惑がられないか」「自分と話してもつまらなくないか」と不安の方が強くできなかった。でも、今は少しやれるようになった。したいことをするのは意外と勇気がいる。恐れているのだ。彼女たちが自分を傷つけてくるのではないか、あるいは自分が相手を傷つけてしまうのではないか。でも、やってみると、案外怖くないことだとわかるかもしれない。
やりたいことをやるのは「面白きこともなき世を面白く」するために必要なことなのかもしれない。
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