無能のすゝめ

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず
引用『学問のすゝめ』福沢諭吉

日本の名文の一つと言えようこの言葉。これの続きは「ほならね?どうして偉い人と愚かな人がおるん?勉強の差やろ。勉強しぃや〜」と続くので学問のすゝめ、らしい。
らしいと言うのは、もちろん、俺は学問のすゝめを読んだことはおろか手に取ったこともない。そして慶應義塾とはなんの関係もない(あったらよかったのに)。なのでインターネットでググって調べたから「らしい」なのだ。

こんな読んだこともない本に対して色々言うのもあれだが、時代はもう福沢先生の生きておられた時代ではない。偉くてもいい、偉くなくてもいい、な時代なのだ。

いや、むしろ、私はこう言いたい。
無能がいい。むしろ、無能だからいい。

奇しくも天下の福沢先生へのアンチテーゼになってしまって全慶應生に睨まれているのかもしれないが、それよりも俺は一万円札が使えなくなる方が怖い。
やっぱり無能、ダメゼッタイ。有能、ナレゼッタイ。

しかし、冷静に考えると偉い人とは、偉くない人がいないとなり得ない二元的な存在であるし、有能だって無能あっての有能である。光あるところ影あり。光が強ければ強いほど、影も濃くなるのである。

無能には無能の価値がある。それは別に有能を引き立てることに限らない(時にそうなってしまうのは悲しいが)。
何を隠そう拙者、みょーん、有能と無能にカテゴライズするとなった場合、無能に入る人間なのである。

もちろん、無能は「能力が無いこと」の意味ではあるが、なんの能力もない人なんていない。そういう意味で自分は有能なところもあるし、無能なところもある。

ポイントは自分自身が「はぁ……俺ってなんでこんな無能なんだ……」と自意識するところに思う。自己肯定感という言葉でも説明できるのかもしれないが、別に他人から無能の烙印を押されても、自分がバカボンのパパよろしく「これでいいのだ٩( ᐛ )و」と思っていれば無能でもいい。周りの人には迷惑かけてすまんのだが、人という字は人と人が支え合って出来ているらしいので、まぁ許してちょんまげってな感じで。

ただ、さっきも言ったように自分で自分を責めるのはいけない。反省はいいが、自分を一番可愛がれるのは自分なので、そんな自分が自分を責めたら自分が可哀想だ。自分っていう漢字が多いな。も一つおまけに自分っと。

ならば、無能でも良いということを示すことができれば、自分を責めなくても良いのでは無いか?
そんな方法を考えていきたい。

自分自身も「なんでこんなに無能!俺は!あの人は有能!You know?俺の長所!ダメな頭脳で恥かく俺、人のいないところで死ねたら本望!」とふざけないと本気で落ち込んでしまうくらいには自分を責めてしまうときがある。
仕方がない。無能というのはいい意味で使われない。
「みょーんくんってさ、いい意味で無能だよねw いや、いい意味で!いい意味でさ!w」とか言われても無能にいい意味なんてないだろ引っ叩くぞ!と思うだろう。なんだよ、いい意味で無能って。「いい意味で」って、それもう悪い意味の言葉を貴方に言っておりますよ、という前提のもとで使われてるじゃねぇか。

さて、真剣に(?)無能でもいい理由を考えていこう。すゝめとか言っといて勧める内容思いついていないところに、みょーんが無能たる所以を感じざるを得ない。

無能のいいところは、シンプルに等身大の自分でいられることである。もちろん、自己卑下につながって自分を必要以上に矮小に思ってしまうこともあるが、「有能」のレッテルをつけられることで自己が肥大することもない。
無能っていうとあれかもしれないけど「できることはできるし、できないことはできない」と思うと、意外と生きやすい。
そら何もできない自分に傷つくこともあるけど、残念ながらそれが自分。

現代は有能待望時代。無駄(無能)は排除され、コスパを求められる。筋トレにはパーソナルトレーナーがいて、良質な道具とプロテインがある方がいい。それが一番マッチョに早道。それが資本主義における理想である。その世界で戦えるのなら戦えばいい。でも、皆がその世界にいられるわけではない。
友達とくだらない無駄な時間を過ごしたり、使わないものを買ったり、世の中、本当は無駄に溢れている。無能を許さないということは、そう言った無駄の否定にもつながる。
人は無駄に救われている。友人との会話を「2時間話をすることでストレス軽減につながる。それは日常のパフォーマンスを高める。3時間以上になると逆に疲れるので喋らない」などと無理に意味づけたり、学びにする必要はない。無駄は無駄でいい。だから、無能は無能でいい。無能「だから」人は救われるのだ。有能を引き立てるためだけが無能の価値ではない。

ただし慶應生、君達はダメだ!

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