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記憶の中の落語家(7)三代目桂文我【*】
[画像は、前田憲司『桂文我』(喜迴舎、1995年)より引用)]
私がこの連載で取り上げているのは、原則として自分が生で見た落語家かつ鬼籍に入られた方を対象としている。1954年生まれの私が生の落語を楽しんだのは、高校時代の落語研究会(1970年4月〜1973年3月)の活動で仲間と通った道頓堀・角座での3年間である。その後、落語をライブで楽しむことを再開したのは、今の職場に赴任した2004年以降のこと、なんと30年間の空白がある。その中で、例外的に生の高座に立ち会ったのが、三重県松阪市への単身赴任中の「四代目桂文我襲名」の落語会。今回の画像は、その時に購入した<前田憲司『桂文我』(喜迴舎、1995年)>から借用した。この本は限定1000部発行で、私のものには<704>と番号が付されている。四代目=当代の文我は松阪市の出身、市民会館で行われた落語会は超満員、ゲストが桂南光だったと記憶している。
さて、今回取り上げるのは三代目桂文我、この方も角座で何度も聴いている。前回取り上げた桂文紅と一時期同棲していたのは有名な話で、前回紹介した当代文我がまとめた『若き飢エーテルの悩み』【**】は、まさにその頃の生活をつぶさに記した日記で構成されている。
文紅がくぐもった声の地味な語り口であったのとは対象に、文我は明晰な口調で聴きやすく、何とも言えぬ軽みのある高座であった。ネタもいくつか聴いているが、記憶に残っているのは「始末の極意」くらいか。ネタよりも、高座姿そのものが強く印象づけられたのだ。
文紅が筆の立つ人であったことは当時から承知していたが、文我が落語に関する膨大な資料を収集し理論家でもあったという、この点に関しては当時の私は無知であった。
結局、文紅とおなじく文我についても、その後聴く機会はなく、ここに記すこともこれ以上ないと言ってよい。ただ、当代文我の<文文>についての記録を残された努力には、敬意を表しておきたい。
【*】略歴(Wikipediaから)
3代目 桂 文我(かつら ぶんが、1933年(昭和8年)7月5日 - 1992年(平成4年)8月16日)は、戦後の上方落語家。本名は石木 正一。出囃子は「せり」・・・。
【**】
四代目桂文我編『桂文紅日記 若き飢エーテルの悩み』(青蛙房、2009年)