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快適なキャンプは矛盾なのか。作り続けていくことで自分と向き合い、スマートな悪から逃走する

どうやって自分と向き合うか

私が入っているオンラインコミュニティWasei Salonで哲学者 戸谷洋士さんの「スマートな悪」の読書会が開催されました。この本は私も読んだことがあり、私の以前のnoteにもスマートな悪を紹介しながら非効率の必要性みたいなことを書いたくらい思入れのある本だったので、ぜひ参加したかったのですが、あいにく日程合わずで参加できませんでした。参加できない時はアーカイブ、ということで、Wasei Salonではアーカイブを残してくれているのがほんとありがたい。アーカイブを見ると、参加できないことが悔しいくらい興味深い話をいっぱいしていました。その場で話に関わりたかったですが、悔やんでも仕方がないので、私も考えたことを書いてみます。

書くテーマは読書会で話に上がった「キャンプで快適なギアを揃えて、もはや家みたい」という矛盾について。

快適から自分のためのキャンプへ

最初に「スマートな悪」の話から、なぜキャンプを快適にすることが矛盾につながるのかを少しだけまとめてみます。

「スマートな悪」では、何も考えてなければ、いや一つのことに盲信しすぎると、と言った方がいいかもですが、簡単に人はシステムの一部に組み込まれる、ということを問題提起してくれています(簡単に言いすぎかも)。社会が目指すスマートという絶対善みたいなものを盲信した結果、人は何かを失っているのではないか!?

その典型例として、キャンプで最高のギアを揃えて超快適なキャンプをしている人の話がありました。超快適なのが家のように快適だとすると確かに、キャンプに何を求めてるんだっけ!?って思ってしまいますね。これぞ、一つ一つ眼の前の課題を解決していった結果たどり着いた境地って感じがします。しかも、課題は社会が規定したものだから、家もキャンプも同じものになる。同じ方向に進んでいる感じが「スマートな悪」で問題提起しているシステムに組み込まれた感じがありますね。

でも、キャンプは毎回テントやサイトレイアウトを作っちゃ壊してを行うので、その過程の中で、快適以外の何かに気付ける希望もあるなって思っています。キャンプの「作る」という行為は、商品やサービスを作るのとは違って、自分のために作るので、自分と向き合う機会になれます。どう作った方が快適か、という観点で作っているときもあるだろうけど、同じようなことを何度も自分のために作り続けていると、こうしてみようかな、という気持ちが芽生えるときがどこかで来てもよい。一生来ない人もいるかもですが、自分の気持ちに気付きやすい環境にはあると思います。

そう言えば、自分のために作る、という同じようなテーマの本を最近読みました。同じWasei Salonメンバーの山口祐加さんが執筆された本「自分のために料理を作る」です。

この本を少し振り返ると、食という毎日関わることでさえ、自分のために作る、ということができなくて、山口祐加さんのアドバイスがないとなかなか気付かない、ということがありました。そう思うと、キャンプを通して自分と向き合うのもそう単純にはいかなさそうですが、キャンプは自然の中にいることで社会との違和感を感じ、キャンプサイトで他の人のキャンプも見れるので、自分と向き合うキャンプを始めやすい環境ではあると思います。

そういう我が家もキャンプをしますが、自分のためのキャンプ、なんて実は考えたこともなかったです。意識を促すためにも、「スマートな悪」のような読書会があったり、山口祐加さんのようなアドバイスがあった方がいいですね。意識が芽生えてからのキャンプはまた違ったキャンプになるのでしょうか。今年も家族や仲間とキャンプに行ってきます。

(ちなみに私はまだ山口さんとお話したことはないです。。どこかWasei Salonのイベントでお会いできるとうれしいな)

自分を見つめる畑

締めっぽくまとめた後で恐縮ですが、どうしても畑とつなげたくなるのが私のnoteなのです。キャンプの作る話と畑の作る話が重なったから、このnoteを書きたくなったわけです。

そう、畑も作り続けることの1つなのです。野菜を作り続ける、というのもあるのですが、土や畑そのものも作り続けることができる良きテーマなのです。

ここで、自然農法を長年実践され、自然農の師とも言われる川口由一さんの著書「妙なる畑に立ちて」という本にも以下のような一節を紹介します。私が好きな一節です。
(川口由一さんは去年2023年6月9日に永眠されました。びっくりする訃報で驚いたのを覚えています。)

田畑の外が整いましたら栽培いたします場所の畝作りです。これは同時に排水のため、水はけのための溝づくりでもあります。(中略)この畝作りは、(中略)水に恵まれた地かどうか、排水の良し悪し等と作物の性質との関係が問題となりますが、一番の問題となりますのは水との関係です。土地の乾き具合と湿り具合です。もう一つは日当たり具合です。これらと作物の性質とを考え合わせて畝作りをします。が、個々の性質や状態を分析したり、専門学的に調べてはいけません。その土地に建てばわかるものですし、栽培を数年重ねていればわかってくるものです。自らの生活の中から出てきた答えは最も確かなもので、素晴らしい結果に繋がります。常識や習慣や既成の判断から入るにしても、いずれはそこから出られて下さい。最初から既成の考えを超えて試みられることも大切です。耕さない、肥料は用いない・・・等などの真の理には、こうしたところから出会えるものです。

川口由一著「妙なる畑に立ちて」 

常識や習慣から出ないと「耕さない」という概念には至らないのです。農を通して何かしらの違和感を感じ、そこから常識や習慣なんか無視して、自分で考え始める。この自分で考える機会を自然農の畑で与えたい、と私は常々思っております。野菜がうまく育ってくれないときに、肥料を与えるのではなく、やり方を調べるのではなく、自分で考える。別に収穫量が少なくてもいいわけです。小さな実でもいいわけです。自分がどんな畑を作り、どう野菜と対話したいか。それだけを考えた時に、見えてくる自分と向き合うことを大切にしたいです。

近所の市民農園で作ってる畑。ほんとはいろんな形の畝を作りたい

最後に

自分と向き合うために作り続けることは良き行為だと思います。何を作るかは何でも良い。キャンプでも料理でも。それぞれ自分にあったもの、無理なく続けられるものを選べば良い。私は、自然農を通して、作り続けて自分と向き合うことをやりたい。自分と向き合う環境を作りたいです。自分と向き合う環境なだけだと、キャンプや料理の方が自然農より身近で良いように思いますが、それでも私は自然農で気付きを与える環境を作りたいな。これが「スマートな悪」から逃走できる場所になると信じています。

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