みちくさ⑤‥明星黎明期の親たち
学校法人明星学園発行の『明星学園報』に、資料整備委員会が連載している「資料整備委員会だより・みちくさ」を転載します。
資料整備委員会だより第5回
‥‥2016年5月発行分、明星学園報No.106に掲載
■明星学園が生まれた時代
明治以降の日本の公教育は、天皇中心主義、国家主義に沿った国民を育成することを目指していました。天皇に忠義を尽くし、国家を愛し、父母に孝行し、兄弟仲良く…という“モラル”を教えることが教育の目的で、大人中心・教師中心の画一的な知識注入の教育が行われていました。
大正時代に入ると、そのような教育の流れに対抗するように、児童中心で自発的な学びを尊重する「新教育」を目指す動きが現れてきました。「新教育」とは、子どもの自主・自立・自学をだいじにし、個性を尊重する子ども中心主義です。この時期は、第一次世界大戦後の好景気を背景に大都市に人が集まり、人々の考え方や価値観にも大きな変化が生じてきた時代です。多くの学校では未だ明治以来の画一的な教育が行われていましたが、一方で新しい考え方を持つ人たちは自身の子どもを託す先として新教育を行っている学校を選び始めました。成城小学校(1917年)、自由学園、文化学院(1921年)、池袋児童の村小学校、武蔵野学園(1924年)など、新教育の担い手となった私立学校がこの時期に誕生しました。
明星学園はその中のひとつ、貴族院議員だった澤柳政太郎博士がつくった成城小学校に勤めていた赤井米吉、照井猪一郎らの教師が成城を辞めてつくった学校です。(彼らが成城小学校を去り新しい学校をつくるに至るエピソードは『明星の年輪―明星学園90年のあゆみ―』の第1部に詳しく記しています。)
■創立時の後援者 茶郷基氏
大正デモクラシーの機運が退潮にむかい、関東大震災を機に景気も下り坂になった時期に創立した明星学園の船出は、準備段階から経済的な困難を抱えていました。それでも創立に踏み切ることができたのは、赤井先生と同じ石川県出身で、娘を成城に通わせていた茶郷基氏の多大な援助があったからです。茶郷氏はその頃日本の領土であった朝鮮で鉱山を経営していた富豪で、学校創設の資金、校舎建築費、校具備品費のほか教員の給与まで補填してくださいました。政財界の知人に赤井先生を紹介し、後援をお願いしたこともありました。茶郷氏のお嬢さんは明星の開校にあわせて成城小学校から転校し、創立時の2年生となりました。
開校の日になっても未完成だった校舎が象徴するように、創立後もたびたび危機に見舞われた明星ですが、その時々に援助の手を差し伸べてくださったのは、茶郷氏をはじめ、明星に子どもを託したお父さん・お母さんがただったことを忘れてはなりません。
開校記念写真(1924年5月16日撮影)
■初期の保護者たち
創立時に9名だった3年生(1回生)は小学校卒業時には26名に増えていましたが、これらの児童の保護者はどのような人たちだったのでしょうか。創立期の資料から1・2・3回生の親の職業を調べてみると、いちばん多かったのは会社員、次に自営業、学校の教員(明星の教員も含む)と続きますが、その次が軍人というのは時代を表しているのでしょう。赤井先生の交友関係とも関連があるのかもしれません。
1・2・3回生 保護者の職業
当時子どもの進学先として明星を選んだのは、リベラルでインテリで比較的富裕な家庭であったと赤井先生が分析しています。単に子どもを預けただけでなく、学校の経営や上級学校の創設にまで中心的な役割としてかかわった創立時の保護者たち。そのうち、ごく一部の方を紹介しましょう。
1回生保護者 岡﨑栄松氏
宮城県出身。大学卒業後は県内小学校の訓導(教員)・校長を経て地方教育行政官となる。その後横浜・東京での行政職に転じ、明星の保護者であった1927年には日本栄養協会を設立し、学校給食の基礎を築いた。1943年宮城に戻り、終戦翌年の1946年6月仙台市長選に当選、1957年12月まで務めた。市長を離職後は宮城教育大学の創設に尽力している。明星学園後援会の初代会長。
1回生保護者 山之内兵十郎・鈴衛夫妻
鈴衛夫人らが中心となり1927年1月に正式に結成された「明星学園母の会」は、すぐに父親たちを動かして「後援会」を発足させた。それは小学校卒業後の児童の進学のため、明星学園に上級学校を創設することが目的だった。兵十郎氏もこれに応えて多額の経済的援助により学園を支えてくださったばかりでなく、後援会の最高顧問となり、各界の有力者に学園を紹介してくださった。山之内合資会社社長、自らも幼稚園を運営する教育者でもあり、明星創立同人の熱意に心ひかれ、末娘を3年生に編入させた。
3回生保護者 加藤隆義氏
広島県出身の軍人、最終階級は海軍大将。海軍兵学校時代の同期に及川古志郎大将(10回生及川郁郎氏の祖父)、長谷川清大将がいる。上級学校創設にあたっては山之内氏・川井氏と並んで多額の寄付により中学校・高等女学校の実現に貢献してくださった。また夫人も山之内鈴衛氏らとともに母の会の活動で、学園の諸施設の充実に尽された。
3・4回生保護者 川井源八氏
三菱電機株式会社の二代会長。中学校・高等女学校創設に際して多額の寄付をしてくださったほか、1931年、女学校の特別教室(割烹室、裁縫室、理科室、校長室、職員室)として、三菱銀行深川支店の建物を移築費とともに寄付してくださった。
(次回へつづく)
(文責:資料整備委員会 大草 美紀)