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みちくさ⑭‥市村夫妻と軽井沢寮―学園寮2

市村今朝蔵氏との出会い


 明星学園最初の寮は、信越本線沓掛駅から北へ向かって15分ほど歩いた落葉松林のなかにありました。「上野原寮」「沓掛寮」とも呼ばれたこの学園寮の敷地は、軽井沢一帯の大地主・市村今朝蔵氏から寄付された土地です。(「上野原」の表記について、地名として正しいのは「上ノ原」ですが、明星では昔から「上野原」と書いてきました。)
 創立以来、運営資金集めに奔走していた赤井米吉学園長は1930年の早春、市村氏が軽井沢の土地125万坪(約400万㎡)を委託分譲しようとしていることを知ります。そして一面識もなかった市村氏の自宅を訪ねて、土地の一部を明星に分譲させてほしいと頼み込みました。赤井は成城学園が小田急線沿いの土地分譲で利益を得たことに刺激されたのです。
 政治学者でもあった市村氏の自宅は下落合にありました。突然の訪問にはきよじ夫人も驚かれたことでしょう。しかし今朝蔵さんは、赤井が熱心に語った明星教育の趣旨に共鳴され、林間学校をつくるための土地3千坪の寄付と、事業用として3万坪の土地を坪2円で提供することを約束してくださったのです。これが市村夫妻と明星との長い付き合いの始まりでした。

市村夫妻

 赤井を見送った後、今朝蔵さんはきよじさんに「あの先生の教育に対する考え方に全面賛成であり、気に入ったから応援することにしたよ」と報告し、長女の米子さんを明星へ入れることも宣言され、その後間もない4月に長女、翌年に長男、1934年に次女、1935年に三女と4人の子どもたち全員を明星に通わせました。
 今朝蔵さんは『小学部教育月報 ほしかげ』17号(1935年12月10日)に、明星学園への期待を次のように書いておられます。

 実生活の中からの一番切実な希望の一つは信頼して事を托し得るという条件が充たされる事だろう。何処を見渡しても不安、疑惑が汪溢している現時に於いて特にその感が深い。
 生命、財産の安全、保障のためには皆相当努力盡瘁する。しかし、ある意味ではそれら以上に貴いものに対して慎重な注意を欠く場合がある。それは子女の教育、特に如何なる学校に委せるかという問題についてである。
 便宜的に付近の公立学校へ無反省に通わせる父兄は一番多数を占めているであろう。世俗的な名声にかられて無批判に特定の学校へ入学せしむる保護者も相当にある。そんな事で大切な子女の教育に忠実であり得ると言えるだろうか。
 ここに、父兄として責任ある考慮の必要が生まれる。当然にまず、まったく信頼しきって子女を托し得る学校を何処に求めたらよかろうかという問題にぶつかる。その問題の解決には第一に現在の教育の弊たる画一主義、形式主義の泥田に沈淪していない学校を選ばなければならない。次に進んでは教育原理の真諦に立つ学校を見出さねばならない。なお学校の環境、教育当事者の個々等についても考査がめぐらされる事も必要であろう。それらの条件が満足に充たされて初めて、安心して、信頼して、子女を托し得るという事になるのだ。
 そうした条件を備えた学校は、暁の星の如く極く少ないではあろう。だが、皆無だとは言わない。私はこうした得がたい学校の一つに我が明星学園を挙げることが出来る。
 私は子女を持つ友人、知人に会うごとに無条件に明星学園を推称してきた。それは六ヶ年の経験を経た推称である。教育は一種の科学であり、芸術である。粗雑な科学や、低俗な芸術に満足しているものは論じない。いやしくも、子女の天性を保全し、それに属する本性を教養して、人生全体の生活を完成せしむる基礎を生み出す安全の場所を見出す真実の責任を感じているならば、明星学園を選ぶに憚らない。またその発展を熱望してやまないであろう。
 私はこの短い言葉を明星の現在の父兄と共に、子女の教育に腐心する世の父兄に送りたい。

 昭和10(1935)年、赤井は今朝蔵さんに明星の理事をお願いし、以降終戦まで赤井・岡崎栄松・市村の3人が理事として学園経営にあたりました。軽井沢の土地分譲の収入は学園の他の支払いに充てられて、ほとんど市村氏に返済することはできませんでしたが、後に今朝蔵さんは「分譲の金は入ったことはないが、明星の建物がだんだんできているからいいよ」と言ってくださったそうです。
 市村夫妻と明星の関係は、夫妻が軽井沢に拓いた「南原文化村」にもつながっていきます。

南原文化村


 市村家の広大な土地に「友達の村をつくろうよ」と今朝蔵さんが言い出したのは1932年のことです。今朝蔵さん自らが図面を引いて村を作りあげました。中央の平らな土地を共有部分として運動場、クラブハウスなどを設け、後にテニスコートも2面作られました。この村が開村した1933年の7月なかば、明星小学校の1クラスが突然この村で3泊4日の夏季生活を行うことになりました。経緯は定かではありませんがおそらく学校寮の工事の都合だったのでしょう。きよじさんの回顧録には「この飛び入りのお客様には天手古舞しましたが、子供達の村造り参加はすばらしいことでした。一面の落葉松林の中には獣道ならぬ子供道が縦横に出来、お山全体に一斉に生気を吹き込んだかのようになって、友達の村の開村は淋しいどころか思いもかけない陽気さで始まったのでした。」と書かれています。迷惑をかけただけではなかったことにホッとしました。
 今朝蔵さんのデザインしたこの村はやがて「南原文化村」と名付けられ、分譲地のほぼ中央に位置する市村夫妻の家を中心として、我妻栄野村胡堂蝋山政道松本重治松田智雄我妻洋吾妻光俊井上秀黒川武雄前田多門など、多くの学者や文化人が別荘を建てました。そして大人たちが文化村滞在中に研究や執筆に集中できるように、きよじさんが子どもたちを預かったのが南原子供クラブです。
 午前中はクラブハウスに子どもを集めて宿題や勉強をしましたが、その子どもたちの面倒を任されたのが明星の教員たちでした。安藤正義、原田満寿郎、小森澄憲、吉田登、依田好照‥‥などなど、歴代の教員が明星の夏季生活の後も軽井沢に留まって南原子供クラブを手伝い、市村夫妻との交流が続きました。学園からの恩返しの意味もあったのかもしれません。
 ご自身の研究と、日本女子大学・早稲田大学の要職という多忙な身にありながら、敗戦後には赤井の後任理事長として新制明星学園を支えた今朝蔵さんと、晩年まで明星学園のよき理解者・協力者であったきよじさん。お2人の学園へ対する功績については、ぜひ『明星の年輪―明星学園50年のあゆみ』(1974年発行)などの資料もご参照ください。


次回へ続く 文責:資料整備委員会 大草美紀


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