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みちくさ⑫‥明星学園小学校のジグザグ校舎

学校法人明星学園発行の『明星学園報』に、資料整備委員会が連載している「資料整備委員会だより・みちくさ」を転載します。

資料整備委員会だより第12回
‥‥2021年3月発行分、明星学園報No.113に掲載

 明星学園小学校の門を入ると、ジグザグ型の校舎が目にとまります。現在の建物は2000年(平成12年)に完成した二代目〝ジグザグ校舎〟です。なぜ明星の小学校校舎は、あのような形なのでしょうか。その答えを探しに70年ほど昔にさかのぼってみましょう。


 創立30周年を迎えた1954年ころの明星では、創立期に突貫工事で建てた質素な校舎はすでに老朽化し、戦後急増した児童・生徒数に対応するために、教室の数も広さも増やさなければならない時期を迎えていました。その頃、子どもたちが口ずさんだ歌があります。
「明星学校 ボロ学校 入ってみたら いい学校」
というのです。あるいはこれは近所の子どもたちが、明星の粗末な校舎をからかって囃し立てたものに、明星っ子が「入ってみたらいい学校」と付け足したのかもしれません。今となってはほんとうのことは分かりませんが、明星に通った人の多くは、子ども心にもきれいとは言えなかった校舎を、懐かしく、そして温かい気持ちで思い出すのではないでしょうか。

 学園では創立30周年を機に、教育内容の充実と教育環境の整備を重要課題と位置づけ、「第2の創業」として学園振興事業を立ち上げます。計画実現に要する期間を10年と見据え、校舎の新築・改築とともに、教育内容を一層充実させようという計画でした。
 この時代は、明星学園全体が教育の一本化(4・4・4制など)、学校経営の近代化(事務局の発足)に向けて動き出した時代でした。
 学園では校舎建築資金捻出のため、目標額1,100万円の学校債を募集し、限られた条件下で目標を実現するため、建築計画に次のような条件を示します。
①新築は授業を中断させないため使用中の既存校舎に影響を与えないこと。 ②極めて限られた工事費による整備。
③明星学園教育の伝統の尊重と新しい進展に応ずる建築的処理

――これらを満たすために、建築家・清田文永氏に設計を依頼しました。

 梓建築事務所(のちの梓設計)代表の清田氏は保護者で、当時お嬢さんが小学校6年生に在校中。また夫人の宏子さんは明星の2回生で、学園創立時の21名の入学者の1人でした。清田氏は学園の経営状態も教育内容もよくご存知でしたし、さらに宏子さんの影響と写真などの記録から、創立期の学園の様子にも詳しく、明星教育のよき理解者でした。清田氏は子どもたちの学校生活に対する理解をさらに深めるために、善方先生、原田先生、橘先生、船山先生、横川武先生から詳しく話を聞き取りました。
 設計は小・中・高ともに並行して進められましたが、前述の条件①と工期の関係上、小学校の実施計画が先行して進められました。

下の写真:初代のジグザグ校舎(右)と完成間もない特別教室棟(中央手前)。中学校校舎と第2体育館はまだない。グラウンド奥には旧制時代の講堂が残る。(1961年撮影)↓

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 PTA会報『道』No.33(1956年6月11日)に「学園新築工事のこと」と題して、この計画で小学校校舎をジグザグにしたわけが解説されています。その内容を要約すると、

1. 工事費の関係で鉄筋コンクリート構造にできなかったため、平屋建てとし、構造体をコンクリートブロックにすることで工事費を大幅に削減するとともに、簡易耐火構造を実現。

2. 敷地長辺が南東向きのため、旧校舎のように道路に沿って平行に建てると、日照時間が短くなる問題があった。そこで新校舎は、独立させた教室一つ一つを斜めに南向きにすることで、長い日照時間を得られるように工夫。また教室南側の高窓の外部には、木製で傾斜のついた遮光板を設け、入射角の大きい夏場の太陽光線を遮り、入射角の小さい冬には教室の奥まで日光を通す工夫をした。

3. 夏季の暑さ対策として、南北に風が抜けるよう南側を大きく開けた。

4. 各教室の前庭の独立性の保持。各クラス専用の遊び場となり、とくに低学年の子どもたちには、自分たちだけの楽しい遊び場となろう。

5. 各教室間の騒音伝達の防止。コンクリートブロック壁に加えて、突き出た隔壁を設けることで、さらに遮音効果を期待する。また教室北側に開放廊下を設けることで、旧校舎の土と連絡する外廊下の形式を受け継ぐとともに、廊下の騒音を教室から遮断し、また軽構造として工事費のローコスト化を図る。

――このように工夫に満ちた試みを多く取り入れることで、建築費用をより低く抑え、しかもデザイン的には斬新で、子どもたちの学校生活に対してさまざまな配慮がなされた、画期的な校舎が誕生しました。

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上図は旧校舎と新築校舎の位置関係を重ね合わせたものです。
方位マークからわかるように、敷地は真南ではなく南東に向いています。

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上:小学校(井の頭)の完成図。計画段階ではジグザグ校舎が3列だったことがわかる。

下:中学・高校(牟礼)の完成図。校舎建築計画が進行中の1959年度から4・4・4制を取り入れ、7年生以上は牟礼の校地で過ごすことになった。教室もこれに合わせて計画された。

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 工事はまず第1期として、既存の小学校校舎と旧女学校校舎の間の空間に、6教室を建てることから始まりました。工事の間、子どもたちは既存の校舎で生活を続けながら、新しい教室の完成を待ちました。
 事務局の担当者は「最初に設計図面の上で予想していたものよりも、ずっと重量感に満ちたものであり、工事は想像以上に複雑かつ壮大である。一棟延べ200坪、工費600万円、坪あたり単価約3万円弱の経費で、このような大掛かりな工事が出来ようとは、実際に目の前に建物が出来なくては理解できなかったが、設計担当の梓建築事務所清田文永氏、施工担当藤木工務店湊裕氏(保護者)、御両人のそれぞれの分野に於ける並々ならぬ学園に対する御好意を、建築の進展につれて痛感する」と感想を述べています。(PTA会報『道』No.33)

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上の写真:第1期工事中。ジグザグ校舎後列6教室の姿がはっきりしました。(1956年5月撮影)

 上田八郎元高等学校長がのちに「清田氏は西ドイツで見たジグザグ校舎にヒントを得た」と話しておられました。また、子どもたちが教室前庭や外廊下に出て遊んだり勉強したりする姿は、明星草創期の様子とも共通します。
 明治期以降、日本の学校建築は兵舎としても使用できるよう無駄のない片廊下形式が増え、さらに戦後は逆に旧兵舎を改修して学校に転用したケースも多かったそうです。
 明星の校舎はこうした考え方とは全く異なり、子どもたちの学校生活をいかに豊かにするかを中心に据えて作られました。
 当時としてもめずらしいジグザグ校舎は、建築関係者をはじめ、見学者も多かったそうです。
 また、学校見学に訪れた人のなかには、南向きに開け放した明るい教室や、教室から飛び出して前庭で遊ぶ子どもたちの様子を見て、「ここに通いたい!」と決めた人がたくさんいました。

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上の写真:前庭で遊ぶ子どもたち。写真の右手に見えている柱列は、前列校舎の外廊下で、ここもまた恰好の遊び場でした。前列の外廊下と後列前庭には少し段差があり、低学年と高学年の子どもたちが別々の遊びをするのにも都合よくつくられていました。これらの良いところは、後に建て替えられた校舎にも受け継がれています。

 この初代ジグザグ校舎は1999年に解体されましたが、解体にあたった工事の人たちが驚くほどに頑丈な土台で、「明星のためにできる限りの建物を建てよう」とした当時の関係者たちの熱い気持ちが伝わってくるようでした。

文責:資料整備委員会 大草 美紀

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