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九天九地12:罠とも知らず、新天地

新天地、横浜へ

借金に苦しむ嘉兵衛のもとに、ある日、鍋島藩の家老、田中善右衛門が訪ねてきた。
善右衛門はもともと微禄の生まれではあったが、神童の誉れ高く、その才能を藩主に見込まれて、家老に抜擢されたほどの人物である。

嘉兵衛も何度か会って面識はあったのだが、仮にも一藩の家老ともあろう人物が、一出入り商人の店を訪ねてくるというのは、普通ではない。

田中の用件は、翌年六月に開港となる横浜に、鍋島藩特産の伊万里焼の店を開きたいが、嘉兵衛にその店を商ってみないか、という話だった。

鍋島藩のほうでも、嘉兵衛の窮状は噂に聞いていたらしい。何か方策があれば応援したい、という趣旨もあったのだろう。しかし一方では、嘉兵衛の手腕をうまく使えば藩の財政への貢献にもなろうという、田中善右衛門の才覚という面も強かったようである。

横浜開港に際し、伊万里焼の出店が出遅れると、美濃や尾張の陶器店が先に市場を席捲してしまい、肥前の陶工達は仕事を失ってしまう。その為、嘉兵衛を使って先手を打ってしまおう、という計画である。

この話の出た安政五年、1858年あたりから、日本は新たな激動期へと突入してゆく。

開国に伴う尊王攘夷の風潮、井伊直弼の日米通商条約調印、それに反対する攘夷論者達の弾圧開始。安政の大獄である。

続いて7月にはコロリ=コレラが発生し、多数の犠牲者が出た。時の将軍徳川家定もまた、この犠牲者であったと言われる。
混乱のさなかにあって、誰も将来の見通しが立たないこのような時期に、田中善右衛門が異人相手の商売の将来性に目をつけ、嘉兵衛を起用したのは、いちおう卓見ということになるだろう。

田中善右衛門の提示した条件は、開店資金として四千両を長期間の年賦払い。これは嘉兵衛にとっては、願ってもない条件だった。横浜という場所に始めて縁が出来たのも、嘉兵衛にとってこれが発端だった。

しかし、江戸を離れ、国際港としての横浜を新天地として店を出すのは良いが、未だ一歩も足を踏み入れたことのない横浜という土地でのことだ。しかも、異人相手の商売…果たしてやっていけるのだろうか?
不安はあったものの、当時の苦しい状況の中、他に突破口を見出すすべもなく、嘉兵衛はこの話に賭けてみよう、という気持ちに傾いてきた。

とにかく、嘉兵衛は安政六年六月二日、横浜港開港の日に、「肥前屋」という屋号で、横浜に伊万里焼の店を開店したのだった。
鍋島藩直売店のようなものなので、他店よりもはるかに安く品物も豊富で、外国人客だけでなく、日本人客も多く利用するようになり、大変な繁盛ぶりとなった。

ところが、一息ついたかと思ったのも束の間、この店には余計なおまけまでついて来る。
江戸と横浜では一日という距離だ。肥前屋の繁盛ぶりはすぐに江戸で噂になり、多数の債鬼が、店先に姿を現すようになってしまった。

「これだけの品物を置いてこんな繁盛ぶりだ、こっちの借金も払ってくれ」

こんな債務者に追い回される毎日では、せっかくの再起をかけた店の繁盛ぶりも、何にもならない。おまけに、慣れない品物、異人相手の商売でもある。嘉兵衛はすっかり神経をすり減らして、ノイローゼに近い状態になってしまったという。

貨幣売買で大儲けの筈が

嘉兵衛の苦労は、そのほとんどが南部藩との付き合いから引きずってきたものだったが、それでも肥前屋の商売は順調に軌道に乗っていった。
横浜を窓口とする日本の貿易額は、安政五年から文久三年までの五年間で、総額五倍という伸びに達した。
伊万里焼のヨーロッパでの人気は高く、肥前屋を訪れる外国人の数は日増しに増えていった。

ここで、嘉兵衛はふと、妙なことに気づいた。
肥前屋ではほとんど商品を売るだけだから、すぐには気づかなかったのだが、外国人の商人のやりかたには、変わったところがある。
商品を買う時にはすべて銀貨で払い、自分の商品を売る時には、必ず小判を要求するというのである。

嘉兵衛は改めて、小判の中の金分と、銀貨の銀分の量を計算し、その値段を比較して仰天してしまった。

貿易港としての横浜開港という事態で、幕府の役人はそこまで気づかなかったのか、あるいは法整備が追い付いていなかったのか、日本で行われている交換比率には、国際比率と大きな乖離があった。

日本の金と銀の交換比率は一対五だが、国際的なそれは一対十五である。

幕府のほうも、この問題にはある程度気づいており、金貨を外国人に渡すことは禁じていたが、国内での交換比率は放置したままだ。
その為、小判を小判としての貨幣価格で使用せずに、小判を鋳潰して金塊とし、金としての時価で売り渡せば、公定換算率の三倍に売れるのだ。

理に敏い商人たちが、このからくりに気づかない訳はない。現に小判の闇相場のようなものがあり、そこに小判を流せば、公定相場の倍以上の銀貨が入る、という情報も耳に入ってきた。

大量の小判を入手し、裏取引で銀貨に交換し、銀貨を公定相場で売れば、その差額だけで膨大なものになる。これを利用すれば、借金などはすぐに返済できる。

そして、借金ぶんだけ稼いで、借金完済の暁に、この闇商売から手を引けばよかったのだが、嘉兵衛にはこの方法がまるで、打出の小槌に思えた。
しかしながら、この行為が国法に触れるということは、まるで考えてもみなかったという…。嘉兵衛には、この方法は天啓のように思えた。

嘉兵衛は更に、いろいろ手を尽くして探索を続け、この闇取引の首謀者が、アメリカ人貿易商のディーセンと、オランダ人貿易商キネフラであることを突き止めた。
このオランダ人は肥前屋の上客でもあり、嘉兵衛も顔はよく知っていた。早速彼はキネフラの商館を訪れ、人払いの上、密談を進めた。

嘉兵衛は鍋島藩から小判を貸してもらうので、それを元に多くの取引をしたいと、キネフラに持ちかけた。
たちまちのうちに乗り気になったキネフラと、換算率の細かな相談を終わると、江戸へと駕籠を飛ばし、鍋島方に事情を打ち明け、江戸屋敷の小判を放出して欲しいと頼み込んだ。

鍋島藩にとっても損になる話ではない。ただし、藩として公然と闇取引に参加したとあっては、もしもの時に家名に傷がつく。

「決してこちらに迷惑はかけてくれるなよ」という約束の元に、新たな嘉兵衛の活動が始まった。鍋島藩以外にも、各所から小判を集め、キネフラの所に持ち込めば、公定歩合よりもはるかに高率で銀と交換できる。その差額から発生する利益で、負債を返済し始めた。

この闇取引、つまり「金売り銀買い」は商人なら誰でもやっていた、ということもあるだろう。しかし、嘉兵衛がここまでこの取引にのめりこんでしまったのは、借金でノイローゼ状態だったことに加え、若さもあった。

この闇取引は、足掛け2年、実質1年2ヶ月続いた。取引仲間も何人かでき、嘉兵衛はこの利益で、いとも簡単に莫大な借金を返済し終わった…
しかし、今で言うなら、「外国為替管理法違反」という立派な犯罪に当たる。

ディーセン、キネフラ及び鍋島藩と組み、貨幣相場で、いとも簡単に大きな利益を出していた嘉兵衛は、更に手を広げるべく、江戸麹町の両替商達とも手を組んだ。
嘉兵衛が、商談で江戸へ帰っていた、その年の十月のことである。

九天九地13へ続く

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