短編小説 「密度の高いものから沈んでいく」
タワーマンションの窓からは、うんざりするほどたっぷりと都会の街が一望できる。ビル群の中央にはクリスマスカラーの光を灯すシンボル・タワーがそびえ立っていた。見れば見るほど、おもちゃの街みたいな眺めだ。
「まるでトロフィーみたい」
結婚してここに住み始めた頃、ビル群を目にした妻がうっとりと言った。倫也はそれをまるで昨日のことのように覚えている。ひとまわり年下の妻の言葉に、彼はたいへん誇らしい気持ちになった。あれから一年が経とうとしている。
「出張、傘を忘れないでね」
声のした方を見ると、妻がキッチンでお茶の準備をしていた。テーブルに近寄ると、甘いラムの香りがかすかに鼻先をくすぐる。たっぷりドライフルーツの入ったパウンドケーキが切り分けられ、花びらを添えてテーブルにセットされていた。
スマートフォンでケーキの写真を撮影しながら、妻はひとりごとのように呟く。
「やっぱり、レシピに書いてある通りにしないとダメね。それによく混ぜないと」
「なんの話?」
「ドライフルーツが生地に沈んでしまっているの。密度の高いものから順に」
「とても美味しいよ」
倫也はなぐさめるような口調で言った。ケーキは申し分なかった。お代わりしたいくらいだよ、と準備した言葉は、しかし言う必要がなかった。次々と届くスマートフォンの通知音が彼女を忙しくしてしまったからだ。
シンクに食べ終わった食器を運ぶ。粉だらけの大理石の上で、バターの塊がやわらかくなっている。倫也の落としたフォークが、まっすぐ床にぶつかってカタンと音を立てた。
「もう行く時間だ」
「もう?」彼女はやっとスマートフォンから顔を上げ、夫の方へ目を向けた。
「傘、忘れてない?」
「持ったよ」
テレビのニュースが雨の予報を告げていた。といっても、夕立みたいなものだろうと倫也は思った。19:30のフライトが欠航になるほどの悪天候にはならないはずだ。
「何かあったら電話してね」と、10歳の少年に言い聞かせるように、彼女は言う。
「クリスマスイブまでには帰るよ」
妻が計画したクリスマス・パーティーに顔を出すつもりで、彼はそう言った。その前に主治医に会う予定もあった。夜はフレンチ・レストランの予約も入れている。
なかなかの忙しさだ。でもすべてが終わった後は、見合った安息が得られるはずだと倫也は考えていた。その「すべて」に含まれるものの中には、もう一つの大切な約束があった———シオリに会うことだ。
なぜそんな約束をしてしまったのだろう? と、彼は急降下するエレベーターの中で思いを巡らせた。まあ、いい。人びとが何を考えてどう行動するかなんて、たいていの場合、本人にさえわからないものだから。
◇
倫也は弁護士の仕事をしている。有名な組織に十数年所属して、その後弁護士事務所を立ち上げた。
広島で開かれるセミナーに講師として招かれることが決まった時、ふと元妻のシオリに連絡してみようという気になった。離婚以来、会ったことはなかった。出張のことを告げると、シオリは年末年始休暇を早めに取得し、娘の凪とともに広島からこっちへ出てくる予定だと知らせてきた。何度かのやり取りを経て、空港で待ち合わせることになった。
タクシーに乗って十分と経たないうちに、雨がふり始めた。ポツポツと細かい雨粒が窓ガラスをつたっている。ふと反対側の座席を見やると、赤いリボンの掛けられた箱があった。
「ああ、それ」運転手が言う。「前のお客さんの忘れ物ですね。クリスマスのプレゼント。この時期多いんですよ、忘れていく人」
見覚えのある包装紙は老舗の玩具店のものだった。中身はテディ・ベアかミニカーのセット、あるいはブーツにつまった甘ったるいお菓子のアソートかもしれない。あの店にありそうなものを想像すると、つい顔がほころんだ。
そうだ。なぜ今日までクリスマスプレゼントのことを思いつかなかったのだろう。
空港はクリスマスの雰囲気に満ちていた。いつもなら早足で通りすぎるショッピングゾーンを、目を配らせつつ歩いた。しかし、目につくものはどれも何かが足りない気がして、久しぶりに会う娘への贈り物として似つかわしいものはすぐには見つからなかった。
彼は書店に立ち寄った。絵本でもないよりはましだろうと思ったのだ。学生のアルバイトとおぼしき店員にわけを話すと、彼女は感じの良い笑みを浮かべながら「何歳のお子様ですか?」と質問した。
頭の中でとっさに算数をする。4歳。いや、5歳になっただろうか———娘の年を即答できないことが気まずく感じられて、彼は「小さな子です」と曖昧に答えた。
彼女は、売り場から人気のシリーズをピックアップして見せた。どれも同じように見えたが、くまがホットケーキを焼く絵本には、なんとなく見覚えがあるような気がした。彼はそこから適当に一冊を選んだ。
包んでもらう間、カウンターの脇に置かれたスノードームを眺めて過ごした。ふと手にとって、ひとゆすりしてみると、黄金色の雪がきらきらと舞う。おもちゃの街は天蓋から底まで、まんべんなく雪の祝福に包まれた。雪の最後のひとひらが、落ち着くところへゆくまで彼は見ていた。
「本を贈るサンタさん、とても素敵だと思います」
紙袋が倫也に手渡された。店員の目がやさしく笑っている。ふいに生まれたばかりの娘のことが思い出された。ミルクの匂いや、桃のようにやわらかな肌の感触、跳ね上がったまつ毛に宿る神々しさなんかを。娘に会える嬉しさが実感として湧き上がって来て、彼は搭乗ゲートへひらりと飛び込んだ。
待ち合わせ場所の64番ゲートは空港の中央部から遠かった。着くとすぐにシオリの姿は見つかった。
彼女はカフェテリアにひとりきりで食事をとっていた。長い髪をゆるく結わえて赤い口紅をつけ、以前よりずいぶん健康的に見えた。ふんわりしたベージュのセーターがよく似合っている。
「久しぶり」
と倫也は言った。
「元気そうね」
彼女は無造作に白い包みを開けた。「おみやげにと思って買ってきたの。牡蠣のオイル漬と甘くないマーマレード・ジャム」
「ありがとう」
どちらも好物だ。彼は絵本を今出すべきかどうか迷った。しかしこういったものは本人に渡すものだと思い直し、やめておいた。
「広島もどしゃ降りだった。こっちに着いても雨、いやになっちゃう」
ひとりごとのように彼女はそう言って、ブラックコーヒーを一口、コクンと飲んだ。
「じきに止むよ」
倫也は向かいの椅子に深々とすわった。そして、この休戦地帯を取り囲む靄のような空気を、ばかみたいに明るいクリスマス・ソングが流し去ってくれたらいいのにと願った。
彼はウェイターにコーヒーを注文した。それからふたりの境界線ともいうべき地点にクリップで立てられた注意書きを読んだ。「ソーシャル・ディスタンスに配慮してください。会話は他のお客さまのご迷惑にならないよう控えめに」。
彼女の両手は食事のプレートの上をせわしなく動いていた。パンケーキ、ソーセージ、サラダ。彼女はソーセージとパンケーキを重ねて切り分けると、その上からシロップを垂らした。帰国子女の彼女が昔から気に入っている食べ方だった。彼女の両親が、まだどっぷりと彼女を甘やかしていた頃、毎朝食卓に並んでいたメニューだ。
「懐かしいな、それ」
スウィート・アンド・ソルティ。その味を舌の上に思い出しながら、倫也はゆっくりと時間を遡った。3年だ。彼ははっきり自覚した。最後に会ってから3年が経つのだ。
「もう今じゃあまり食べることもないのよ。昔、あの子が小さい時はよく作っていたけど」彼女はまたコーヒーを飲んだ。黒い瞳がまったく動いていなかった。
「凪は元気?」
「元気よ」
「きっと元気なんだろうな」
倫也は待ちきれなさそうにあたりを見回す。しかし娘の姿はどこにも見当たらない。
すこし離れた席で、子ども連れの家族が食事をとっていた。四人家族だ。テーブルには食事の皿があふれんばかりに並べられ、その隙間はミルク瓶や離乳食、ナプキンのたぐいで埋め尽くされている。椅子の上に立ったりすわったりしている女の子、ペーストをすくったままスプーンを投げる赤ん坊。まるで劇場だ。数年前、その劇場の中に自分もいたなんて信じられないな、と倫也は思った。
「それで」彼女はナプキンで口の周りをぬぐった。「ミサキさんとはうまくいってる?」
「ああ」
嘘だ。すぐに撤回するべきだと彼は思った。でもその後、まんざら嘘でもないと思い直す。べつに喧嘩別れをしたわけじゃない。それに、今ここで人間という物語の嘘をひとつひとつ検分する必要はない。
倫也はピッチャーのミルクをコーヒーに注ぐことに集中した。ゆっくりと、執拗に。細く注がれたミルクは、すこし時間を空けて、雲が湧くように浮き上がって来た。
「ねえトモ君、あなたは私たちにするべきことをたっぷりしてくれたんだから、彼女と幸せになってくれたらそれでいいのよ」
倫也はまず驚きを受け止め、それからじっと考え込んだ。わからなかったのだ。彼女の言う「するべきことをした」の示すものが、ミサキとの不貞なのか、高額の養育費なのか、あるいは他の別のものなのか。
「きみの方はどう、結婚式の準備はすすんでる?」
倫也は場の雰囲気を変えるべく、その話題に取り掛かろうとした。
「式はキャンセルしたの」
と、シオリは答えた。
倫也は言葉を失った。そして半ば反射的に、
「こんなご時世だものな」
と、つぶやくように言った。
「別れたのよ。気にしないで。べつにあなたのせいではないから」
倫也は深呼吸した。ふたりの間をただよう憂いの靄を消し去るくらい、長く息を吐き出せたらと思った。言葉は思いつくそばから見えない壁にぶつかるようで、わざわざ注意書きなんかに言われなくても、ソーシャル・ディスタンスを越えていくことは到底出来そうもなかった。
「それはそれは」
自分がそう言った声を、彼はまるで他人事のように聞いた。
雨はもうまともに降り始めて、窓の外は乾いていた跡もない。つややかに濡れた滑走路が鏡のように旅客機を映し出し、地平線は無数の冷たい光にふちどられていた。まるで大きな湖の上に自分たちだけが浮かんでいるみたいだと彼は思った。
一刻も早くここを離れたかった。
「あのさ」彼は一度咳をし、それから胸の中のものを一気に吐き出すようにあとを続けた。
「きみの方こそ、僕のことなんか忘れて、幸せになってほしい」
何か異常なものをそこに発見したかのように、シオリはまじまじと倫也の顔を見つめた。
「あなたって、本当に……」
彼女の口から漏れたのはそのわずかな言葉だけだった。
微妙な影が彼女の顔に差し込んだ。彼女は虚無を見ていた。計り知れないほどの、奥深い虚無が目の前に存在していた。彼女は自分の選択が正しかったことを確信した。もうここにいる必要はないと思った。
凪は今どこに?
と倫也が訊きかけた時、シオリの鞄の開いた口に白いイヤホンのコードが引っかかっているのが見えた。ずっと音楽を聴いていたのだろう。いやな予感がした、と同時に、倫也ははっきりと悟った。
娘は最初から来てなどいなかったのだ。
娘に会えないとわかった瞬間、倫也の背すじを冷たいものが走った。自分だけが愚かしいような気がした。
「もう行くわね」
シオリは身の回りを片付け始めた。「お見送りできなくて申し訳ないけれど、約束もあるし」
「かまわないよ」
倫也はうわの空で答えた。
「最後に、何か言うことはある?」
「そうだな」
うまく頭が働かないまま、記憶の底に沈ませておいたものを掴んでたぐり寄せる。「ひとつだけあるよ。きみが凪と家を出て行った時、あとには何も残されていなかった」
シオリはもう伝票に手をかけていた。
「でも一つだけ残して行ったものがあったんだ。石鹸さ。浴室に。封を開けたばかりの。あれは一体、どういう意味だったんだろう?」
彼女は目の前の虚空を眺めていた。少なくとも倫也には、あるかなきかの愛と苦悩をないまぜに、とどめを刺すかどうか迷っている表情のように見えた。しかし彼女は自分と決して相容れないものに深入りするほど愚かではなかった。
「覚えてない。たぶん捨てるつもりだったんだと思う。ねえ、もう行かなくちゃ」
「うん」
「さよなら」
さよなら、と倫也もおうむ返しに言った。シオリの足音がコツコツ遠ざかり、すぐに空港の雑踏にかき消された。
先ほどの四人家族も席を立った。じゃれあい、もつれあいながら、騒々しいパレードの最後尾のように倫也の目の前を通り過ぎていく。かと思うと、少女が立ち止まり、何やら駄々をこね始める。モミの木のてっぺんに掲げてある星が欲しいのだ。パパに聞いてみて、と母親は言い、あれは売り物じゃない、と父親が諭すように言う。少女はそこら中に響きわたるような大声で泣きじゃくる。
(もしも僕があの父親なら———)
(———何だってあげるのに。)
その席から一歩も動けないまま、倫也は思った。そして我にかえった。
(何を言っているんだ、僕が最初にそれを全部かなぐり捨てたんじゃないか。)
モミの木は、さまざまに色づいた魔法の光をまとい、行き交う人々に福音を投げかけていた。しかしその光が自分に与えられることはないと彼は思った。
雨はどしゃ降りになり、やがてフライトは欠航になった。
渡しそびれた絵本を、彼は紙袋ごと空港のゴミ箱に捨てた。
いずれにせよ、それで良かった。後で分かったことだが、5歳の子どもはあんな絵本を欲しがりはしない。もう赤ん坊ではないのだから。
◇
帰宅した時、もう22時をまわっていた。妻はテーブルクロスを新しいものに取替えている最中だった。
全身を雨に濡らした倫也を見て妻は眉をしかめたが、何も言わなかった。
いつからか夫は自らすすんで雨に濡れたがるようになった。なぜなのか訊いても、模糊とした返事があるだけだ。
「明日の朝、ホットケーキを焼いてくれないかな」
「どうして?」
倫也はすこし考えて、食べたいから、と答えた。嘘だ。
妻はわかった、と頷いた。
倫也が寝室で服を着替えている時、ドアがノックされた。
「お医者さまの予約を変更しておいたわ」と、ドアの向こうから妻の声が聞こえた。そして少し興奮したように、「クリスマスイヴなんだから楽しまなくっちゃ」
「そうだね」と彼は答える。「サンタクロースになり損ねるわけにはいかないからな」
「あなたって優しい」
妻の顔には幸せとも不幸ともとれる表情が浮かんでいる。倫也にはその声だけが届いた。
ベッドに腰掛けると、視界がゆれているように感じた。それが自分の内側から出てくる震えだと気づくまでに、そう時間はかからなかった。
わからない、と倫也は思う。
幼少期から父の跡を継ぐと将来を見据えていた。やがて弁護士事務所の代表となり、結婚をして、娘を授かった。
社会の規則にしたがい、なるべく人に迷惑をかけないように、きわめてまっとうに生きて来た。なのになぜだか、ある一瞬を境にまったくの別人のような行動に出る。誰かを傷つけ、その人がもう二度と誰も信じられなくなるようなことを、この手でしでかしてしまう。そして運命はまるで波にさらわれるように、己の手をはなれてどこまでも漂流していく。
ふるえる手でベッドサイド・テーブルの引き出しを開け、乾いた石鹸を枕元に置く。
もう何の香りもしないその石鹸の香りをかぎ、かすれていく記憶にしがみつきながら、失われた3年の歳月を、もう一度生きようとする。しかしその3年はもう彼のものではなく、その長さも重さも、算数で計れた3年とは違っている。
彼はそのままベッドに倒れ込む。ベッドの下には冷たい湖がある。揺れる波が白い泡を立てる。
薄らぐ意識の中で、体が浸水したのを感じる。ゆらゆら輝くスノードームの雪とともに、彼は深い緑色をした湖底の街へと沈んでいく。水面に浮かんだ旅客機の下腹が、どんどん遠ざかっていく。
密度の高いものから沈んでいく。パウンドケーキのドライフルーツと同じだ。軽いもの、中身のないものは浮いてしまう。
濡れそぼった景色の底に、一つだけ濡れていない窓があるのが見えた。うまくあそこまでたどり着けるだろうか。彼は立ち向かってくる浮力にあらがうように、両手を組み合わせて、懸命に祈った。
<おわり>
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