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夜が呑み込むもの/dreamed all night
夕食のあとのうたた寝が私を、夜中に置き去りにした。台風はどこまで近づいただろうか、相変わらず静かに雨が降り続いている。
しんとした部屋に、灯りは煌々とついたままで、カーテンのすき間に、黒い虚無がびっちり押し寄せてきていた。私は流しを片付け、水を飲む。夕食のシチューは何をどう間違えたのか、味が濃く重たかった。
ときどきこんな夜がある。
何もかもやりっぱなしで放り投げて、ひとりだけ昨日に取り残されたような暗い夜が。
SNSの窓をのぞいて、人々の行列を見やった。不調な人、もの寂しげな人、叫びたい人…… でも、きっと、みんな優しい人たちだろうと私は思う。昼間のあいだ裏返しておいた言葉のカードをそっとめくって、夜の流れに本音を開放しているだけなのだ。
声たちは、どこまでも飛んでいける。たまたま開いている別の夜間窓口まで、濡れた夜空を、ふわりふわりと流浪しながら。
好きな料理を食べるように、好きな言葉を選べばいい。私はそんなふうにインターネットの海原をさまよう。ただ、やっかいな狩猟者たちには近づかないように。彼らは窓辺にひっそりと身をこごめて、流れ弾に撃たれて怪我をする獲物を待ち構えているから。
遠い嵐の気配。
ふと思い立って、パンを焼く。ホームベーカリーに粉をさらさらと入れ、バターを落とす。砂糖と塩、たまご、ミルク。ドライフルーツとナッツはたっぷりと。料理の本を閉じて、スイッチを入れた。
ベッドにもぐりこんでライトを消し、外の闇に聞き耳を立てる。
誰かの声。知らない人たちのざわめき。細かい雨のような、言葉の散弾。嵐はそう近くないはずだ。たしかニュースではずっと北の方の進路が予測されていた。
海を叩き、猛進していく風のとどろき。誰かが撃ち落されたような、波のうねり。一瞬でひるがえる、おびただしい数の言葉のカード。ガラスが砕けるようにちらばり、苛烈に渦巻く波に沈んでいく。
ゴトゴトゴト、カンカン……
◇
やがて感情を抑えた、あたたかな指が、カードをいちまいいちまい並べていく。それは、もう夢の中の出来事だ。気がついた時には、レモン色の透きとおった光の匂いが私を包み込む。
「おはよう」
パンはおいしく焼き上がった。
どこにでも売っているパンを、わざわざ作る必要はない。けれど、何事もなく迎えた朝に一つしかないものを誰かと分け合って食べることは、とびきりの贅沢になる。鏡のように向かい合って、寝ぐせのついた髪をお互いに笑いながら。それは、私たちの人生に数限りなくある、目立たないひそやかな奇跡の断片だ。
きれいに並べられたカードの絵をめくりながら、夜の食べていったものと、吐き出していったもののことを想う。カードの王様と王女様は私に向かって微笑んでいる。やすらかに、ほがらかに。
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読んで下さってありがとうございます。
WEBメディア「タオルト」さんに『タオルのある毎日』の記事を書かせていただきました。寝苦しい熱帯夜もあるけれど、すやすや眠れた翌朝は素敵です。
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