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掌編:ケヤキの招待状

 風がドアをバタンと開けて、目が覚めた。

 ポーと淡く発光しながら蝶のように飛んでくるものがあって、つまんでみるとケヤキの葉っぱに文字が書いてある。

「パンパーティへのお誘い」

 ケヤキの葉っぱは、街路では見たことのないような不思議な色をしていた。どこから飛んできたのだろう。おかしな招待状には違いなかった。部屋のすみのコルクボードに留めておいたら、そのうちになくなってしまった。

 パンといえば、曲がり角の先の行き止まりに、かつておじいさんが一人で営んでいるパン屋があったが、経営がうまくいかなくてつぶれてしまったと、風の噂に聞いた。今はそこに金券屋が代わり、どぎつい色のネオンサインを出している。

 あやしい人々が日夜を問わず出入りするようになり、黒ずくめの魔女のような女や、麻袋をいくつも搬入する男たちが目撃された。裏口に置かれた箱の中身は、何ダースものナイフだったと言う者もいた。人々はじきにそのパン屋のことを忘れ、最近ではもっぱら新しいスーパーマーケットでパンを買うようになった。

 もっとも、しばらくのあいだ、パンのことなどどうでもよい時期があった。食べものも飲みものもどれもこれもざらざらした砂のような味で、呑み込むとこんどは胃がしくしくと痛むから、食べものを前にするともう緊張で体中がこわばってしまう。

 帰り道、歩きながらエナジードリンクを飲むと、こうこうと夜空を照らし上げていたスーパーマーケットの光がふっと消える。そんな時いつも、夜の底にひとり取り残されてしまったように感じた。でもそれは私が電車に乗れなくなる前の話だ。毎日、街へ出て、仕事をしていたときの話。

* * *

 秋服のワンピースに袖をとおしたら、ふと違う道を歩きたくなった。空は高くさわやかに澄み渡っている。こんなに心がはずむのは何年ぶりだろう。いま私が歩く道を掃き清めた水色の風が、心のなかに流れ込んでくる。

 すこし散歩をするつもりで、水路のせせらぎを聞きながら歩いていると、甘く香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。どこかでかいだ匂いだな、と、頭の中にまっすぐ届いたのは、味はたしかなのだけれど、かたちのいびつなのや、ときどき焦げたの、入れすぎたクリームがはみ出してしまった、すこしぶきっちょな仕上がりのパン――つまりは、おじいさんのパンのことだった。

 パンの香りはどんどん濃厚になり、ふと顔をあげると、見覚えのあるレンガ造の建物の前に立っていた。それは、金券屋に変わったはずの、おじいさんのパン屋。すぐそばには、まだらに色づいた背の高いケヤキの木が、リズムをとるようにさわさわとゆれ、音楽は屋根裏部屋の小窓から聞こえてきていた。

 まだ中に入ってもいないうちから、パンの焼けるしあわせな香りに囲まれてしまって、いてもたってもいられなくなっているところへ、窓にギターを持った男の人が現れた。

「招待状をお持ちでしたら、どうぞお入りください」

 その窓からちょうど手の届くところに、ケヤキが豊かな枝葉を広げていた。

「…あ」

 ワンピースのポケットの中で指先にふれるものがあり、出してみるとそれはあのケヤキの葉っぱだった。

「お待ちしていました」

 うやうやしく扉を開けてくれた男の頬には傷痕があり、慌てて視線をそらしたら、次の瞬間には拭い取られていた。どうやら、ジャムが付いていたらしい。

 一歩足を踏み入れたとたん、愉快そうな笑い声がはじけ、たくさんの人影がゆらめいた。

「やあ、いらっしゃい!どうぞ、お好きなパンをトレイにとってお席へ」

 黄金色のパンから、いっせいに湯気が立っていた。つややかに頬を熱らせたおばさんが、上機嫌で私を丸テーブルへ案内する。椅子の背に黒いコートがかかっていた。パンをかたどったランプが、食卓の真ん中を明るく照らしていた。

 ネクタイリボンを付けた係の人が、香り高いコーヒーとミルクを運んできてくれる。厨房のエスプレッソ・マシンの下には、異国のコーヒー豆がつまった麻袋が積まれていた。

 私はすすめられるままにいくつもパンを食べた。銀色に輝くバターナイフのことも忘れて、手を砂糖でべたべたにしながら。

 一番奥では、おじいさんが、せっせと卵液をパンのおもてに塗っている。

「心がつかれているときでも、すっと食べられるパンを、つくってみたんだよ。いまの人たちが喜んでくれるといいけれど。好きなだけおみやげに持って帰りな」

 おじいさんの刷毛に撫でられたパンたちは、宝石のように、窯の中からまろび出る。

 次つぎと上の階から下りてきた楽団員たちが、にぎやかな音楽を奏で始めた。

* * *

 翌日、書類封筒を持ってポストへ行くついでに、きいきい自転車をこいでレンガ造の建物へゆくと、まだ近づかないうちから、金券屋のネオンサインが見えてきた。
 豊かに茂っていたケヤキは姿を消し、屋根裏の小窓はくすんだ翡翠色で、もう何年も使われたことがないという具合にひび割れていた。

 おじいさんのパンは袋にしばって、毎朝一つずつ食べることにした。ひとくちごとに、夢見心地のパーティが部屋中に広がる。

 食べきってしまうころには、きっとまた、がんばれる気がする。

 赤いポストの口で手をはなすと、休職届が奥でコトンと音を立てた。

 なぜか心がそわそわするのは、ずっと行ってみたかった街への格安バスチケットを、金券屋で買えることが分かったからかもしれない。



【ケヤキの招待状/終わり】



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