ピナコラーダの夜と昼/Dancing cheek-to-cheek
ときどき自分だけの場所を見つける。予約もしていない、先客もいない、マスターもいない店。つやつやに磨かれた、しかし古めかしいカウンターで、銀食器を私は、かつん、と鳴らす。
音色はその時々によって微妙に異なる。私は硬い、キリッと冷えた水のような音が好きだけれど、今宵の音は、どこかやぼったい。
「夏のさかりに、どうですか、ピナコラーダをおひとつ」
ゆらり、とギャルソンの影が揺らめいた。なんだか滑稽な、黒ずくめの蝶ネクタイ。さびしいようなもの悲しいような音楽が、デッキに漂う人魚の亡霊のように、細い糸を引きながら流れて行く。全然ピナコラーダなんて感じじゃないけど…、と私は思っているのに、雰囲気に押されて、一つもらおうかなと答えてしまった。
「いい夜ですね。明日はお休みですか?」
違いますと私はつぶやく。
会社に行かなくてはならないのに、どうしても行けない日がある。学校はどれもなんとかして行けたのだから、足さえ動かせばどうにかなるはずだと知っているのに、うまくいかない。遠くから見るビルは強固な城塞都市のようで、マスクを付けた人たちが出入りするエレベーターはどんなに強い風でも吸い込んでしまう。みんなが一つしかない時間を分け合っているから、どうぞと言われると体が凍りつく。
いま私がいるところにはマスクの人たちは誰もいない。すこし薄暗いけれどまあまあ心地よい店で、やわらかい皮の張られたソファはぜんぶ空いているし、夜が明ければもの悲しい音楽もやがて止む。何よりも良いのは、この時間は全部私のものだということ。
「あなた、また会ったわね」
赤い口紅を引いた、女のような男のような人がいつの間にかそばにいて、私の手を取ってダンスフロアへ誘った。会ったことなんてないのに、奇妙なことを言うんだな……
「よく飽きもしないわね、こんな退屈なところ」
「はあ」
「どこかへ行ってしまった方が身のためよ。人生はね、決まった人たちとチークダンスを踊るためにあるわけじゃあないの」
決まった人たち……?
あたりを見回す。赤いカーテンが上がって、バンドが準備を始める。フロアはぽつぽつと集まってきた人たちで埋められていく。昔観たトーキー映画みたいに、なんだかちぐはぐな動きでひらひらと舞っている。
曲から曲へ、ドレスの裾をひるがえし、足を踏みつけそうなステップ。笑っている顔、悲しそうな顔。ちっとも覚えていないけれど、いつか出会ったかもしれない誰かさんと、代わるがわる夜が明けるまで。彼らはやがて細かな色のつぶになり、クリームのようにクルクル混ざり合って、私はなんだかよく分からない。
さあ、3、2、1…
回り始めた人の輪が、生ぬるい空気をかき混ぜ、影絵のように大きくゆらゆらと天井に映り始める。私は一匹の魚のように流れに身を任せ、内側からなのか外側からなのかはっきりとしない、心のひだに流れ込むわずかな揺れに、なすすべもなく漂いながら考える。
(――もしかしたら私は、本当の自分の時間なんて、一生手に入れることができないんじゃないかな?)
いっしゅん列が乱れて、現れたギャルソンが私の肩を叩いた。
「すみません、ピナコラーダはご準備できません。入れ違いにビーチの方で売り切れてしまっていて。あちらの方はバカンスの人でごった返していて……」
「いいんです」
ちらり赤い口紅の人を見ると、そ知らぬ顔で他の誰かを誘っているところだった。
そういえばあんな色の口紅を引いたことがある。自分では似合うと思っていた新色を、「なんだか別人みたい」という一言を突きつけられ、その日私は初めてマスクを付けて帰ったのだった。それからずっと私はマスクを手放せていない。
口紅の赤が残像のように引っかかる。人生は時々、こんな横顔を見せつけてくる。女でも男でもない表情の、名前のない人々[彼ら]。
幾夜も眠れない夜を共に過ごして分かったのは、[彼ら]もまた私の一部分であるということだ。曲が始まったら、頬と頬を寄せ合い、ぎこちないチークダンスを踊るしかない。あるときはスロウに、あるときは激しく。ポケットにピストルを忍ばせて。あるいは、愛を隠して。
ドアを開ける私を、ギャルソンはじっと見守っている。
外は夏だ。
マスクを外して深呼吸する。空高くほどけた青い風が、頬に当たってきらきらと流れて行く。店に入った時は夜だと思っていたのに、目の前はビーチみたいに明るい。
(――ピナコラーダじゃなくてもいい。ソーダ水でもあれば。そう、レモンをひとかけら、ギュッとしぼって)
来たことはなかったはずだけれど、なぜだかこの店をよく知っている。この先の白い砂浜への道が、リボンのように波打って輝いている。
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