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何も読みたくない、夜の旅/WARM FLAME

 廃館したギャラリーに、しばらく寝泊まりしていた。

 世界はたくさんの名作であふれているのに、何かを読みたいとか、書きたいとか、触れたいとか、そういう意欲がすっかりなくなってしまう時、私は夜行バスに乗ってあのギャラリーに行く。
 切符はいらない。
 運転手さんは私の顔をちらっと見て、荷物の数を聞く。そして白い手袋で、ちいさな灯りの下の席を指差す。

 すでに消灯の時刻で、車内はほの暗い。ほかの人はみんなすうすうと透明な寝息を立てている。私は、本を読みたいとも音楽を聞きたいとも思わないから、身をこごめてバッグの中からサンドイッチを出して、もそもそと食べる。時間とお金を使うばかりのショッピングのせいで、どうしたって身に付けきれないほどの服や靴がトランクにつまっていて、サンドイッチは悲しいくらいぺしゃんこだ。
 噛むのもめんどうくさくって、適当に味わいながら、部屋に残してきたサボテンのことをふと考えた。

 バスは夜に出発して、夜に到着する。
 しんと眠りに包まれた月の町。そこを出るまでは何もないと思っていた町の記憶そのままだ。
 緑道の小川をつたって南に行くと、だいだい色の水銀灯がひときわ目立つ洋館がある。そのギャラリーは、90歳を越えた老紳士が24時間受付をしている。
 受付をしているといっても、とっくに廃館しているので、老紳士はずいぶん気楽なものだ。階段をほうきで掃き清め、ガラスケースを水拭きし、木製のカウンターでチケットをもぎるふりをして、たいていの時間はひとりで煎れたコーヒーを楽しんでいる。かつて厳しいオーナーだった頃の面影は、すっかり消えている。

 オーナーはしばらく旅に出ていたが (だれもが二度と帰って来ないと思っていた)、ある日ふらりと何ダースもの封筒と便箋を抱えてギャラリーに戻って来たらしく、私のところにもその案内状が届いた。硯に墨を溶かし、筆にたっぷりと墨汁をしみこませて、ていねいに書かれた案内状。

 にじんでよく読めなかったけれど、歓迎されてるってことは、まあまあ確かなのだと思う。たぶん。

 かつて残された人々が美術品のほとんどを売りに出してしまったので、ギャラリーはがらんとしている。大学生の頃アルバイトをしていた時の様子とはすっかり違っていた。
 私はいまでもアートのことなんか何も知らないから、どこがどう違っているのかよくわからないけれど。

 先客の女の子がひとり、奥にテントを張って、灰皿の上で燃える炎を見ていた。かすかな墨汁の匂いを含んだ夜風が、その火をやさしくゆすっている。

 私はその隣にテントを張らせてもらい、やはり同じように、そのオレンジの風が流れるのをいつまでも見ていた。

 こんなふうに書きたいとか、書けるはずとか、ごちゃごちゃといろいろなことを考えるのをやめたら、また小説を読むのが楽しくなった。

 そうだったんだ。
 あるがままに楽しむことを忘れていた。
 本たちは何も変わらないのに。

 偶然立ち寄ったらしい新しいお客さんに、オーナーがほほ笑む。ええ、このギャラリー、額縁はないんですよ。ついでに、説明も。
 いつでも来てください。あなたが必要とする時に。

 私は女の子がくれた文庫本を読みながらバスを待っている。
 小川の水がじんわりと足にしみわたり、そのほとりで、言葉がぴちぴちと跳ねている。
 日が暮れていく。水銀灯に、たそがれの灯が優しくともりはじめる。

 帰ったら、サボテンに水をあげよう。




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