そこにはもう存在しない場所から
もうずっと前のこと、xxxxxx@hotmail.com という私だけの通信基地があった。誰かが私にメッセージを書いて送ると、すぐさま受信して、つながることができた。今では当たり前のことだけれど、当時は魔法のようだった。
私はもう、その基地へ行くことができない。秘密の鍵を失くし、合言葉を忘れるうち、植物のつるが絡み合う密生の奥で朽ち果て、バラバラとほどけて散らばっていってしまった。
持ち主に忘れられて、あやしげなジャンクメールの堆積もそのまま、過去のメッセージをフォルダに溜め込んで失われた、私の初めてのメールアドレス。宇宙に散った通信基地の残がいは、今どこでどんなふうになっているのだろう。
「そのメールアドレスは存在していません」
新しいシステムは告げる。私が気まぐれな旅を続けているあいだに、何もかもすっかり変わってしまったのだ。
りんりんと、どこかで受信を知らせる音が震えている。その音は古い空きビルの一角に残された、クリーム色の電話のベル音に似ている。
四角い、クリーム色の、何の変哲もない地味な電話。誰もいないホールで、一本の線をたよりに、懐かしい純粋な音を響かせている。
そこは昔、といっても10年ほど前まで、老紳士が営む美術画廊だった。血色の悪い、やせ型のちいさな女の子が、不愛想な表情で受付に立ち、来る日も来る日も客を待っている、うらびれた美術画廊だ。
ちょっと頑張れば「いらっしゃいませ」と感じよく微笑むこともできた。でも、あまりにも幼く社会経験のない私は、その感じのよさをどこでどう出せばいいのか分からなかった。――そう、その女の子とは私のこと。チョッキを着たウサギを追いかけて滑り落ちた穴の、不思議の国で過ごした4年間。
外の世界が怖くてたまらなくて、どこへも出て行けなかったその4年間のことを、私はときどき記憶の底から救い出す。
電話が鳴っている。最初はおずおずと、そしてだんだん重厚に。応答する人を、呼び続けている。
老紳士がいなくなった冬、美術画廊は閉鎖された。ポスターは剥がされ、美術品はみんなどこかへ引き払われていった。
「その番号は現在使用されていません」
今はもう何もなくがらんとしたそのホールに、それでも、電話の音が鳴り響いている。
未来のことばかり考えて不安しかなかったあの頃。その過去の宇宙を見上げて、私はいまも書きつづけている。しんと凍えるような群青の静けさの中で、どうしたって手足を動かせなかった、人形みたいな過去の私にメッセージを。
To: "Maimo.N xxxxx@hotmail.com
「あなたは人よりも遠回りをするかもしれないけれど、大丈夫。重く厚い霧の向こうに、良いことがたくさんある」
すべては古びて失われていく。けれど、意味のないことなんてない。悲しみは美しい不協和音に、喜びは触れられる光に。燃える炎がかたちを変えるように、私たちも変わっていく。
もう存在しない場所から、いつしか返信が届くことを夢みて。
私のような誰かから、私のような誰かの心に。
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いつも読んでくださってありがとうございます。アルバイトしていた美術画廊のことは、noteにも少しずつ書いたのですが、まとまったものとしてこちらにも。
サポート、メッセージ、本当にありがとうございます。いただいたメッセージは、永久保存。