夜風喫茶店 #4 「月と紅茶」
私は用水路を見つめている。
毎日、うだるような暑さだから、水はすっかりなくなってしまった。川底にすこしだけ残ったぬかるみに、大人の靴の跡がついている。
どうしてそんなところに足あとがついているのだろう。
私の立っているところは、ちょうど二つの流れが合流するところで、いつもなら透明に澄んだ水が、涼しげな音を立てて川へ向かっている。白い毛の長い猫が、のんびりとすわって、クルクル回りながら流れていく花びらを眺めていることもある。
その向こうは住宅街にかくれてしまって、どういうルートになっているのかよく知らない。知っているのは猫たちだけだ。
泥の匂いがする。
足あとは川下に向かっていた。
私はそれを、きりもなく見ていたいと思う。
◇
「それがあなたの創作と何の関係があるのよ」
夜風喫茶店の店主は言う。
三日月の夜。
私たちはベランダにガーデン・テーブルとチェアを置き、初夏の紅茶を愉しむ場所として、即席の野外喫茶店を作り上げた。
こだわり屋の彼女は、テーブルにクロスをひき、お気に入りのカップ&ソーサーにシュガー・ポット、ミルク・ジャーまで揃えてご満悦だ。
夜半前、ぱらぱらと降った雨のおかげで、いくらか涼しい。しんと眠る街の上に、月と星が輝く。
「それがどう創作と関係があるかというと、」
私は熱いミルクティーを飲みながら、先ほどの彼女の質問に答えようとする。
「私の小説を読んでくれるのは、そういう人じゃないかって気がする」
「干上がった用水路の中に降りていく人?」
「そう」
彼女は肩をすくめる。まあ、上手く説明できるとは最初から思っていない。だいたい私は、考えながらしゃべることが苦手だ。石に打ちつけるように一字一句残していくことで、やっと自分が何を考えているか解るくらいなのだから。
「読者については、もっと具体的に考えるべきじゃないの? もの書きのことなんて何も知らないけれど」
それはその通り。けれど、私がそれを意味や数字で捉えようとすると、たちまち濁った水の中を覗き込んでいるみたいな気分になる。
「あなたは店主として、考えているの?」
「お客のこと? もちろん」
バカなこと言わないでよ、と彼女は呆れ顔だ。
彼女のサーヴィングは、いつも通りに素晴らしい。カップに満たされた紅茶が蜜のように光る。
この数年で、本を数冊書いた。街の本屋で売られたもの、イベントに出したもの、直接購入者に手渡したり送ったりしたもの。
本が売れない時代だっていうけど、それらの本を開いて、最後までページをめくってくれた人が確かにいた。
WEBの片隅でひっそりと文章を綴っていた私の、ささやかな本。
それは一年に一度あるかないかの、特別な条件で出現する川底の道みたいなものだ。その先にあるものなど何も見えないし、足場も悪い。もしかしたら復路はないかもしれない、そんな道。
でも、誰かがそのぬかるみを進んでみたいと思う以上、私はその人の友人だ。手を取り合い、家族にも恋人にも開かない孤独を開いて前に進める、そう思う。
「さあ、店じまいの時間がきた」
月の位置を見て、あくびを一つ。彼女は私のお気に入りのカップに最後の一杯を注ぎ、去っていった。
風は紅茶の香りに混じりあい、あたりに真夜中の魔法を散らしていく。青みがかった夜の中にふと、ありもしない庭園の木々の影と、虫たちのさえずり。それからろうそくの火がゆらいで、誰かが私の隣にすわる。
かすかに泥の匂いがする。
用水路の向こう、暗渠をくぐり抜けた先、遠い海へつながっているはずのその道は、人間の足では行けない。
その人はそこへ行ってきたのだ。
私はずっと、その人の隣にすわって書いている。
<おわり>
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