「うっせえわ」を解釈してみようか。


0,はじめに

2020年10月23日に正体不明の若者が世に送り出した曲が、半年以上経った今も世を賑わせている。YouTubeでの再生回数は1.2億回越えで他多数のYouTuberにカバーされており、BillBoard Japanでも好順位をキープしている。私自身もよく聞いているこの「うっせえわ」という曲はどのような意味を持っているのだろうか。興味を持ったので、今回初めて曲について解釈していこうと思う。具体的に、歌詞を貼り付け、その部分部分から読み取れる事、または曲調から感じ取れることを記述し、最終的に曲全体の解釈を行う形で記載する。

なお、これを読んでくださる閲覧者においては、筆者が音楽理論や技法について学んでいないため詳しくないこと、記載した文言のほとんどが私個人が本曲を聴いた上での主観的な感想と解釈になっており、あくまで個人的な解釈の一つにしかすぎないことにはご留意いただきたい。


1,曲展開

① 正しさとは 愚かさとは
  それが何か見せつけてやる

ここでは、これから歌われることを抽象的に表した言葉となっているように思う。また、(語呂の良さなどは置いておいて)「きかせてやる」だとか「話してやる」ではなく「見せつけてやる」というフレーズになっていること、この部分でここが一番力強い音になっていることから私は、この「うっせえわ」という作品、またはそれが世に送り出されるための媒体を通じて、現実(リアル)の場では決して口に出されることのない心に抱えた違和感を感情に身を任せて伝えられているように感じる。


② ちっちゃな頃から優等生
  気づいたら大人になっていた
  ナイフの様な思考回路
  持ち合わせる訳もなく

学校に評価されるように生きていたら、学校は人生に内包されている一要素にしか過ぎず、例えば自分の人生という、もっと抽象的で本命のお題に大人になってから気づき、本命のお題に割く時間を失ってしまう。そうゆう意味合いで「ちっちゃな頃から優等生」に比べて「気づいたら大人になっていた」は音が下がっているように思う。

「ナイフのような思考回路」というのは「尖った」つまり不平不満を直接相手に伝えるような考え方のように思う。①のパートで示されたとおり、この優等生にはこの考え方はなく、内に秘めたままにしておくつもりのようだ。


この後にも本音を打ち明けないと感じ取れる部分が多々出てくる。これはSNSの普及が一つ考えられる。現代では、本名や顔などの正体を隠しながら何かを発信することができるようになった。本名でないとアカウント登録できないFacebookなんかにはまず登録なんかしない。本音は自身を隠して発信できるオープンスペースで語られる時代に移行した。本名でSNSをやっていたとしても、人は鍵機能を使ってコミュニケーションをクローズドにする。人々はそのような社会変化に乗せられ、悪口は陰口へ、コミュニケーションは直接的なものから間接的なものへと移行したのだろう。本曲を歌うAdoさんもまた、正体を隠した歌い手なので自己開示をしないという点に関しては強い説得力があるように思う。


③ でも遊び足りない 何か足りない
  困っちまうこれは誰かのせい
  あてもなくただ混乱するエイデイ ※エイデイ:aday 一日?

ここでは②で語られた「失ってしまった時間」を嘆くパートである。

本命のお題が抽象的なので、この人物が抱える違和感も「何か足りない」と抽象的なものとなっている。だが、その責任を社会ではなく「誰か」となっている。その正体は社会とは違う価値基準を持った先生か?それとも学校とは違う価値基準を持った会社の上司か?その点定かではないが、いずれにせよ目先の”誰か”に責任を押しつけることで自己完結させているような印象を受ける。だが、明確に悪い人物が「誰か」よくわからないので、やはり曖昧なのだろう。


④ それもそっか
  最新の流行は当然の把握
  経済の動向も通勤時チェック
  純情な精神で入社しワーク
  社会人じゃ当然のルールです 

本曲はsyudouさんという作曲家の方が作詞作曲を手がけている。syudouさんは作曲家となる前は普通に就職していたらしく、この④の部分はsyudouさんの実体験が反映されたフレーズだと考えられる。どれも好きでやっているものではなく、半強制されたルーティーンのように感じられる。やることが多く、社畜のように働くので過去を振り返ったり大きな題に答える時間などない。学校で評価されるように言われたことをきちんとやって結果を出した人間は、(全員が全員そういうわけではないが)社会の犬として従順に働く運命なのである。それを表すかのように、ほぼ同じ速いテンポ・ほぼ同じ音程で流動する社会と変わりない日常を裏付けているように思う。


⑤ はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ
  あなたが思うより健康です
  一切合切凡庸な
  あなたじゃ分からないかもね
  嗚呼よく似合う
  その可もなく不可もないメロディー
  うっせぇうっせぇうっせぇわ
  頭の出来が違うので問題はナシ

実際に本曲を聴いた方なら感じる人もいるのではないかと思うが、サビでは、肝心の「うっせえわ」というフレーズより直後の「あなたが思うより健康です」の方が語気が強いように感じないだろうか?4/18放送の「日曜日の初耳学」におけるAdoさんへのインタビューにて、「”うっせえわ”は裏声、”あなたが思うより健康です”は地声で歌っています」と語っている。

どうしてそうなっているのだろうか?前のパートのフレーズに現れた不満を感情にまかせて叫ぶなら、この「うっせえわ」という文言こそ声量を大きくして曲としての美しさを無視して叫びそうなものである。

私の解釈は『「うっせえわ」という不満の声は、不満を作り出している対象に届くことはなく届けるつもりもない』から肝心のワードが裏声で表現されているというものである。①のパートで述べた通り、私は本曲を「語られることのない本音の若者シャウト」だと位置づけているので、小声または陰口としての「うっせえわ」なのだろう。「うっせえわ」が表向きの態度(苦笑い、真顔など)「(社畜の日常はクソだけど優等生だから)あなたが思うより健康です」が心の中の本音という、同じ人間でありながら二重人格のような構造の訴えが本音の強さを印象づけているように思う。

一切合切凡庸なのは「あなた」だけではない。これを語る者は、人とは違う感性を持っているから社会の中でも「優等生」だと思っているのだろうが、優等生はおそらく学校教育までで、実際はこの人も社畜で、現状を変えようとはしていない。ここに①のパートで発された「愚かさ」が現れている。その後も従順に従う別の社畜に向かって優劣をつけているかのようなフレーズが続くが、自分が一切合切凡庸だと自覚していない上でのフレーズと考えると実に愚かで滑稽だ。

また、散々不満を語りながら、最後は「頭の出来が違うので問題はナシ」と妥協、または自己完結させている。そもそものマインドとして、閉塞的な人間性がこの人には強く身につけているようだ。


⑥ つっても私模範人間
  殴ったりするのはノーセンキュー
  だったら言葉の銃口を
その頭に突きつけて撃てば
マジヤバない?止まれやしない
不平不満垂れて成れの果て
サディスティックに変貌する精神 ※サディスティック:残酷なことを望む様

最初の数行では、不満を直接相手に言いそうな雰囲気が漂う。だが、結局は「マジヤバない?」と嘲笑するかのようなセリフが発される。現代社会を見限っているのだろうか?少なくとも現状は言っても変わらないものだと思っている。「止まれやしない」まで仮定の話で完結、内心にとどめるところに帰結した結果、人の不幸は蜜の味と言わんが如く内心で対象になにか悪いことが起こることを待ち望む愚かな精神を生んでしまうようになった。


⑦ クソだりぃな
  酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい
  皆がつまみ易いように串外しなさい
  会計や注文は先陣を切る
  不文律最低限のマナーです

ここは④より「人」が意識されているように思う。④は環境に対して、ここは人間環境へと具体化されている。これがその後のサビで歌われる不満をお膳立てしているように感じられる。


⑧ はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ
  くせぇ口塞げや限界です
  絶対絶対現代の代弁者は私やろがい
  もう見飽きたわ
  二番煎じ言い換えのパロディ
  うっせぇうっせぇうっせぇわ
  丸々と肉付いたその顔面にバツ 

ここは⑤よりも不満全開となっている。⑦で人間付き合いでおかしい点を指摘しているが、優等生だと思い込んでいるが故、平均的な人間が「現代の代弁者」という大きな位置づけを自称しているので、正しさと愚かさが混在しているパートと言えるように思われる。

また、相変わらず自分の言葉で現状を変えることはしないが、自分の中で人間関係を整理している。映画「聲の形」ででてきた、人間の顔に×をつけたかのような演出だと考えれば良いだろうか。自己を開示することを知らないで育った子の、せめてもの生きやすい環境の創造だろうか。自分で妥協する自己完結しか知らないと考えてみると残酷のようにも思う。


⑨ うっせぇうっせぇうっせぇわ
  うっせぇうっせぇうっせぇわ
  私が俗に言う天才です

自己に溺れるのもここまで来ると最高潮。だが、⑧を聞くと自分の中でしか簡潔させられないという結論が悲しくもあり、またそれがこの若者のせめてもの救いなのではないかとも感じる。


うっせぇうっせぇうっせぇわ
あなたが思うより健康です
一切合切凡庸な
あなたじゃ分からないかもね
嗚呼つまらねぇ
何回聞かせるんだそのメモリー
うっせぇうっせぇうっせぇわ
アタシも大概だけど
どうだっていいぜ問題はナシ

ここでは「何回聞かせるんだそのメモリー」というフレーズが耳に残る。というのは前三行が⑤と全く同じフレーズでそれが効果をなしているからだと思う。ラストで1番のサビと同じフレーズを使うというのは珍しくないことだと思うが、ここではそれが1番で歌われた、脳裏に一度でもちらつかせた「メモリー」として機能している。

ここからこの曲における登場人物について私は2つの想像を立てた。学生時代のsyudouさんと社会人のsyudouさんという1人で2人を演じたパターン、学生であるAdoさんにむけて社会人として生きたsyudouさんが送ったパターン。他にもいろいろあるだろうから、ここは是非自分の考えを持っている方に聞いてみたいものだ。


そして、最後の最後でこの曲の歌い手(Adoさんのことではない)は自分が愚かであることを自覚する。ここまで散々愚かだとか滑稽だとか語ったが、いざ自覚して現状維持の自己解決・妥協されるとそれこそ究極のサディスティックだとすら思い、それならまだ内心だけでも自己を誇張して見せ、自分に酔っていた方が自己を救済できるように強く感じる。

2,全体像、「うっせえわ」は現代若者の内声である。

総じて、徹底的に自己感情を閉塞し、音楽やそれを伝える媒体に頼って間接的に現代の違和感を訴える曲となっていたように思う。歌詞だけでなく素人の私でもわかるくらい音階等にも強い感情依存の叫びが籠もっていた曲に仕上がっていた。これは実際に社畜のような生活を送っている方はもちろん、今現在学校で優等生である学生にも刺さり、学校教育で評価される人物像が社会でほとんど役に立たないというビジョンを見せて不安を煽ったり、歌い手Adoという名前の由来通り、そんな中で他人の人生を変容する役割を果たすという点で本曲は効果を持ちそうである。自己を開示しない現代の子ども、例えば親に心配をかけたくないから学校でいじめられていることを黙っている子などには感情を思いっきり込めて歌ってもらいたい曲である。


まだ曖昧ではあるが、「うっせえわ」が流行した要因、子どもに大声で意味もなくうっせえわと歌わせるほど安い曲ではないということを自分なりに結論づけられただけでも今回の記事を書いた意味はあったと思う。


コレを読んでいる方にも是非本曲を解釈してもらいたい。私としては、他人と異なる解釈を楽しむ、そういったコミュニケーションが取れるその機会を待ち望んでいる。


参考

YouTube『【Ado】うっせえわ』

billboard JAPAN

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