「プーと大人になった僕」感想/100エーカーの森が僕らに教えてくれたこと
2018年の映画
監督:マーク・フォースター
時間:1時間48分
1,あらすじ
イギリスの田舎に住む少年クリストファー・ロビンは、100エーカーの森でくまのプーさんとその仲間たちと楽しい日々を過ごしていたが、ロンドンの私立寄宿学校に入学することになり、お別れパーティーでプーと森の仲間たちに「君たちのことは絶対に忘れない」と約束した。しかし、親元を離れた学校での厳しい躾や教育、父親の死、第2次世界大戦の出兵などを経て、その約束は忘れ去られ、いつの間にかクリストファーは普通の大人になっていった。
首都ロンドンで、旅行カバン会社のウィンズロウ社で働くクリストファーは、多忙のゆえ愛する妻イヴリンと娘マデリーンとの間に溝を作るようなってしまった。 ある日、家族と週末にクリストファーの故郷の田舎に旅行する計画を立てたが、会社グループの2代目支社長ジャイルズから、業績不振の打開策の提案を急遽押し付けられてしまい、家族との約束も守ることができず、一人ロンドンで仕事をすることになった。
その頃、100エーカーの森ではプーが異変に気がついた。森の仲間たちが一人もいないのだ。プーは「親友のクリストファー・ロビンなら何とかしてくれる」と考え、かつてクリストファーが使っていた魔法の扉をくぐると、ロンドンのとある公園に出ることができた。
休日出勤の帰り道、自宅前の公園のベンチに腰掛けるとそこにはプーの姿があった。数十年ぶりの再会に歓喜する二人だが、魔法の扉は消えてしまい、プーはロンドンに取り残されてしまった。 プーをアパートに連れて帰るクリストファーだが、無邪気でドジなプーのおかげて家の中はめちゃめちゃになってしまい、仕事どころではなくなってしまう。
クリストファーは仕方がなく、翌朝プーをロンドンの駅から列車に乗って故郷の100エーカーの森へ送り届けることになる。
引用:Wikipedia
2,感想(ネタバレ全開注意)
率直に、ピクサーが作り出した「トイ・ストーリー3」をディズニーがくまのプーさんでやった。そんなお話だった。
まず、これまでの「クマのプーさん」シリーズをおさらいする。「クマのプーさん」はクリストファー・ロビンの部屋から始まり、絵本が開かれることで100エーカーの森というファンタジーの世界へ移行する。そこではプーなどのぬいぐるみが独自の暮らしを営んでいるが、クリストファー・ロビンはたまに「学校が忙しくなる」というような現実世界の話を口にする。
ここから、これまでの「くまのプーさん」はクリストファー・ロビンの脳内を可視化したものであり、ウォルトの脳内(想像)を可視化したディズニーランドを映像化したような作品になっていた。
そのようなシリーズを積み重ねてきたわけだが、今作はあらすじにも記載がある通り、子どものクリストファー・ロビンは寄宿学校に入学しなければならなくなったことから100エーカーの森を離れた。
その後は自由とは無縁の教育や父親の死、出兵、戦争からの経済立て直しなどなど、クリストファー・ロビンは子どもから大人になり、すっかり現実の波にのまれてしまった。
締め切りがある仕事に追われるという状況に入ったクリストファー・ロビンは、時計を気にし、時間と共に生きている現代の働く人々の象徴だろう。
海を越えてこの作品が届けられた我々の国、日本でも学校の宿題には期限があり、クライアントとの契約では納期がある。学校や会社という組織の達成目標から逆算して計画を策定するため、時間を気にするのは当然といえば当然だが、自分で自由に使えるはずのプライベートまで時間の縛りに侵食されているようにも感じる。
演出面でも、従来の2Dアニメーションではなく、実写化CGへと移行した。アニメーションに比べて各キャラクターが現実寄りになり、色が薄くなっている。ラビットに至ってはうさぎにしか見えず、プーはアニメではなくぬいぐるみにしか見えない。
ディズニーはこれまで自分たちが作り上げてきた想像、脳内の可視化、夢やファンタジーを一度破壊したのである。現実とファンタジーの明確なハイブリッドともいえるだろうか。
物語を現実に寄せたことで、「クマのプーさん」公開当時にクリストファー・ロビンくらいの子どもだった観賞者が作品に没入しやすいような導入、ここから、今作はファミリー・エンタメではなく「クマのプーさん」を見て育った大人たちに今の生き方を見つめなおすきっかけを与えるための作品だと私は思う。
そして、ディズニーが夢を与えてくれるような作品だと思う。
ディズニーヴィランズが口にしそうな言葉だが、「破壊からの創造」が本作のテーマのような気がしてならない。
はじめ、プーのほうからクリストファー・ロビンの方に会いに行く、次にクリストファー・ロビンが100エーカーの森に入り、プーに現実主義者っぽい言葉(例えばズオウもヒイタチもいないだとか)を浴びせてプーを傷つけた際、動きが遅いはずのプーが一瞬にして消えた。その後、イーヨーをはじめとして他の仲間たちが見つかっていき、最後にはプーも見つかる。
本作でも、クリストファー・ロビンの脳内の可視化は行われているのだ。はじめ、プーはしばらくクリストファー・ロビンが訪れていない100エーカーの森に霧がかかり、他の仲間がいなくなっているというのは「とんくり」や子どものころに自分が描いていた絵から、プーが現実の波に負け、ファンタジーというその時の彼から見たらばかげていた話を拒絶したときはファンタジーへの拒絶心から、他の仲間が見つかっていった点は過去の記憶を思い出していったことから…
100エーカーの森とキャラクターの存在はすべてクリストファー・ロビンの脳内に依存するように見て取れた。
クリストファー・ロビンは久しぶりの100エーカーの森、100エーカーの森の住人達は現実という彼らから見たら真新しい世界、双方がファンタジーを楽しむことができている。夢を与えるディズニー物語へのカムバックだ。
メッセージ、これより前のディズニーヒロイン映画を例に挙げると、「モアナと伝説の海」(2016)や「アナと雪の女王」(2013)がラブロマンスから自己実現という方向に舵を切り、受動的な人間から主体的な人間を目立たせ、夢から現実社会の投影にステージを移したことに対し、本作のメッセージは待つもの、動機や過程の大切さを作品の中心によくする(私自身の経験より)長編映画という表現方法で、それを度外視した良い意味で投げやりな言葉が頻繁に送られた。
「どこかの方から来てくれる」
「何もしないことは最高の何かにつながる」
「君は君のまま」
「風船は持っているだけで幸せになる」
(ほかにももっとあるはずなので時間を見つけて再び観賞したい)
私が一度の観賞をして覚えているだけでもここまである。どこかの方からくるというのは自分としては待っているだけで「何もしていない」し、「何もしないことは最高の何かにつながる」ことの理由や確証はない。「風船は持っているだけで幸せになる」のはなぜか全く説明されない。
私は、プーが発する言葉の数々、その抽象さが魅力なのではないかと思う。
風船を持てば幸せになるなら持てばそれでいいじゃないか。
待っていれば向こうからやってくるなら何もしなくたっていいじゃないか。
何も知なければ最高の何かにつながるなら、何もしない。それでいいじゃないか。
本作は、ピクサーの最新作「ソウルフル・ワールド」以上に生きる人、全肯定映画であった。
100エーカーの森にすむ住人たちが意味不明な発言をしたり、マイペースだったり、100エーカーの森に行くと時計が止まるというのも現実の忙しさ、動機論の必要性からの解放を示してくれたのではないだろうか。
嫌ならやめていい。疲れたなら休んでいい。何もしないで日向ぼっこしたりただゴロゴロしたりしていい。それに意味を求めなくたっていい。
生きているうちはやること全部意味がある。その時は理解できなくとも、いつかは何かにつながる。今日は明日ではなくて今日である。
生きることにつかれたり、社会につかれたり、無理に意味を求めすぎている人たちにみてもらいたい、人生の授業、そんな作品だった。
顔にしわができても、大きくなっても、心や頭は変わらないでいることはできる。せめて変わらないところはいつまでも大切にしていきたい。
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