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『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』怪我したカラスを見捨てた話を聞いてもらいたいよ。


大前粟生さんの小説で、映画化もされている
『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』
この作品では繊細であるが故に生きることが苦しくなってしまう人たち、
マジョリティに無心で流されていれば楽なのに違和感をキャッチしてしまう人たち、
そしてそんな人たちを掬い上げるサークルが描かれている。

「ぬいサー」の部員たちはぬいぐるみに語りかける。
語りかける内容も相手(ぬいぐるみ)も自由だけれど、それは誰にも話せない苦しみ、葛藤、悲しみが中心だ。
だからぬいぐるみに話している内容は決して他の人が聞いてはいけない。それがぬいサーの鉄の掟である。

何故誰にも話せないのか、
それは彼らに親しい人がいないからではない。
彼らの優しさのせいなのだ。
優しいから「自分が苦しみを相手に話す、それはその相手に苦しさを押し付ける行為だ」と避ける。傷ついた自分のせいで他の誰かを傷つけることを恐れている。
そして行き場のなくなった苦しみを全て背負ってこの社会を生き抜くできない。
だからぬいぐるみに受け止めてもらう。

彼らは遠くで起きている戦争や有名人が受けている誹謗中傷など、社会の出来事一つ一つに傷つきながら日々を生きている。

少しでも突いたら粉々になってしまいそうなバランスで懸命に生きている彼らが愛おしい。

京都の大学にある、ぬいぐるみサークル。
そのメンバーたちは、
それぞれ人間関係やジェンダーの問題に悩み、
さまざまな葛藤を抱えていた。


今日「これは話す相手を選ばなければならない、でも誰かに聞いてほしい」と思う出来事に遭遇した。

簡潔にまとめてしまえば
・怪我したカラスがいた
・しばらくして他のカラスに攻撃されていた
・私はそれを見ただけで何もしなかった

たったこれだけ、3行でまとまる内容だ。

でも、この3行で私は今苦しい。

詳しくお話すると、
彼とスーパーに向かう途中で様子のおかしいカラスを見つけた。
よく見ると羽が変な方向に曲がっていて骨が折れていて飛べない様子だった。
今日は雨が降っていて、濡れながらぴょこぴょこ移動する姿がとても可哀想に思えた。
保護してあげたい。そう思った。

けれど動物に詳しくない私でも野生のカラスは菌を持っているから触れてはいけないこと、鳥獣保護法があるので勝手に捕獲してはいけないことを知っている。

何か食べ物を与えたとしても自分で食べ物を摂れなくなってしまったカラスには一時凌ぎでしかなく、むしろただ苦しみを長引かせてしまうだけかもしれない。
私にはこのカラスが死ぬまで面倒を見てあげることはできない。
中途半端な手出しは人間の醜いエゴだ。

じゃあ怪我を治せるところに連絡するのはどうか?と思った。
でも、生き物に詳しい彼によると「羽の骨が折れたら、骨折が治ってもまた飛べるようになるとは限らないし、カラスは保護してもらえる対象じゃないから自然の摂理に任せたほうがいい」とのことだった。

神奈川県のHPにも

都市化が進む神奈川県では、人と野生動物のあつれきからケガや病気で保護され保護施設に運ばれる野生動物が増えており、施設は保護された動物でいっぱいです。

また、気軽に与えたエサやゴミ捨て場の生ゴミなどを食べるドバトやカラス(ハシブトガラス・ハシボソガラス)は各地で増殖し、人の暮らしや他の野生動物の生存にいろいろな悪影響を与えています。

このようなことから、原則としてドバトとカラス(ハシブトガラス・ハシボソガラス)は受け入れをしていません。

と記載がある。
ペットを一度も飼ったことがなくて生き物の扱い方を何も知らない私にできることはない。

そして帰り道、見てしまった。
2羽の元気なカラスによって先ほどのカラスが攻撃されていた。
急いで攻撃するカラスを追い払ったとしても、怪我をしたカラスはもうそこから動くことはできないような状態だった。
だから私たちは再び見て見ぬふりをした。

それは家のすぐ近くだったから、扉も窓も閉めているのにカーカーと切ない鳴き声がしばらく聞こえて、少しすると何も聞こえなくなった。

カラスは弱った個体がいると共食いする習性があることを今日初めて知った。
歩道で朽ちているであろうカラスを見るのが怖い。
人通りが多い場所だから、誰かが然るべきところに連絡してくれることを願っている。
事の顛末を見てしまったのに、無力で、亡骸をどうにかしてあげる勇気もなくて、愚かだ。

もし怪我をしているのが犬か猫だったら私たちは保護したと思う。
家に連れ帰って温めて、何か食べ物をあげて、今後のことを考えた。
でも、カラスだったから無視した。
同じ命なのに無視した。
人間だったら迷わず救急車を呼んだし、スズメとかインコとか可愛らしいとされる鳥だったら何かしたかもしれない。
だけどカラスは無視した。
人間にとって増えると困る生き物だから、
人間様の勝手な線引きで命を見捨てた。

どうにもできなかった、
できることは何もなかった。
それでも私は見てしまった、知ってしまった。
だから今苦しい。

『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』で主人公の友人である麦戸ちゃんは突然学校に来なくなった。
たまたま痴漢行為を見かけてしまって、見ただけになってしまって、外が怖くなりそのことを他人には打ち明けられずひたすら家に篭りぬいぐるみと苦しみを分かち合っていた。
今日の私は麦戸ちゃんだ。

マジョリティに順応できない側の主人公七森と麦戸ちゃんの対比として描かれる白城という女の子がいる。
彼女はぬいサーの中で誰よりも社交力が高く、社会の求める女性らしさを演じることができるし、社会の理不尽さをわかった上でどうにか受け止めて生きている。

受け止められなくてぬいぐるみに語りかける側、
理不尽を1人で飲み込める側、
どちらも苦しみの中でもがいている。

一番簡単に生きられるのはマジョリティに迷わず従い、疑問を持たず、もし違和感を持ってしまってもすぐに忘れて流すことができる人だと思う。

だけどそんな生き方はしたくない。
そういう生き方は本人は楽だけれど、知らず知らずのうちに繊細側の人を傷つけている。
気づいていないことは存在していないことではないのだ。

自分が楽に生きること、
他人を傷つけないこと、
上手に社会を歩くこと。
すごくすごく難しい。

大人になったら自然に大人になれるのかと思っていたけれど、本当はみんな痛みを受け流すスキルを身につけたり、マジョリティに合わせる能力が上がっているだけだった。

上手に生きたい。
今日みたいなことを悲しめる私のまま、上手に生きたい。


朝になった。
もう雨は降っていない。
現場を確認しなければいけないと思った。
私は命のその先を見なければならない、もし亡骸があれば私が市に連絡するべきだと思った。

現場は家からすぐ近くの歩道だ。
恐る恐る近づく。
歩道には何もない。
近くを観察しても血も羽も何一つない。
誰かがすでに処理してくれた?
血は雨で流れたとしても、羽は?
野生のカラスが残さず全部綺麗に処理するとは考えられない、現場には何かしらの痕が残るはずだ。
昨日は日曜日で市の窓口はお休みだった。
もしかしていつも早朝から掃除をしてくださっている町内会の方が対応してくれた……?

わからないけれど何もなかったことに安心してしまった。
善人ぶっているだけで結局私には何できないのだ。

確認を終えるとすぐに家に帰った。
外からカラスの鳴き声が聞こえる。
昨日の悲鳴とは違う、力強い鳴き声。


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