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卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説(補足ノート)

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#邪馬台国

卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説 (魏の使者は邪馬台国を訪れたか)

卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説 (畿内説の根拠について)のサブノートです。

 結論から書けば、邪馬台国までの行程に関する情報を報告した魏の使者は不弥国止まりで、その先までは行ってないのではないかと想像してる。

 まず、この「水行」日程(日数)の信憑性について、畿内説を採る場合はある程度信用せざるを得ないだろう。
 畿内説を採った場合の疑問は卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説 (畿内説の根拠につ

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(魏志倭人伝・畿内説)南/東の読み替えを前提にした場合の違和感・矛盾

 畿内説を採る方の多くは「不弥国の先は、「東」とするべきところ「南」と認識してた」と解釈し、不弥国の先の方角は読み替えるべきとする。それに関する自分なりの直接的な評価は卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説 (畿内説の根拠について)に書いた。

 ただ問題は、その方角変換を前提にしてしまうと、そこから派生すると思われる複数の説明にも違和感を感じてしまうことだ。
 具体的には、寺沢薫「卑弥呼とヤマト王権」

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古代九州~朝鮮半島の経済圏(物流圏)と邪馬台国~古墳時代の銅鏡の関係

古代日本・九州から朝鮮半島にかけて(想像)の補足ノート

 九州~朝鮮半島の物流・経済圏と一言で言っても、当然その内情は一定だったはずもない。
そしてその変化の様子の把握は、ヤマト王権が銅鏡を利用してその影響力を拡大するようになる直前の時代を考察するのに大切な要素の一つだと思っている。
 ちょっと脱線するが、特に7世紀以前の「ヤマト王権」については、自分はあまり一般的ではないかもしれないイメージ(

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古代日本・九州から朝鮮半島にかけて(想像)

邪馬台国時代のモノの流通・情報の伝播の補足ノート

 上記ノートには、邪馬台国時代のモノの流通・情報の伝播は、200世紀を超える石器・縄文時代の中で構築されたであろうという理解を纏めた。
 神津島の黒曜石の経済圏を一例に、複数の経済圏の重なりのイメージを描いてみた。この経済圏、流通経路の盛衰や変化はあっただろうが、邪馬台国から現在までの時間の10倍以上の長きに渡り続いたわけだ。
 似たりような経済

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邪馬台国時代のモノの流通・情報の伝播

卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説 (畿内説の根拠について)の補足ノート

1.モノの流通・情報の伝達範囲と政治権力が及ぶ範囲

 再掲載になるが、吉村武彦氏は著書「ヤマト王権」で、岡村秀典「三角縁神獣鏡の時代」の図を引用し、「当初、九州から近畿地方に比較的均等に分布していた銅鏡が、二世紀半ば以降、四国東部から近畿に集中(考古学からみた漢と倭)したことから、近畿が列島の政治的センターになったことを意

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邪馬台国や倭国のイメージと、纏向、ヤマト王権のイメージの違い

卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説 (魏志倭人伝の解釈について)の補足ノート

 タイトルは文字通り解釈すると比較対象が不明確で、ヘンですが、あえてこのままにします。(そもそも、モヤッとしている対象の比較なので)

 畿内説を採る人たちは、魏志倭人伝に描かれている倭国、邪馬台国のイメージはヤマト王権の纏向のイメージに合っているのだろうか?
 自分にとって大きな疑問の一つだ。

1.纏向のイメージ

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(邪馬台国時代)他のクニグニに対する認識(想像)

卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説 (魏志倭人伝の解釈について)の補足ノート

 この時代、遠隔地の情報はモノと共に運ばれたという考え方に異論がある人はいないだろう。そのイメージは、邪馬台国時代のモノの流通・情報の伝播の後半に書いたので、それを前提に少し追加したい。
 上記は縄文時代の神津島産の黒曜石の流通を例に書いてみたが、時代が下り、邪馬台国時代になったとして、これがどう変わるだろう?
 おそら

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