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本能寺へと続く道

本当にこのまま進んでもいいのだろうか。
丹波亀山城を1万3千の兵で出陣した明智光秀はまだ考えていた。
天正十年六月一日酉の刻に備前高松城を包囲中の羽柴秀吉の援軍に行くという名目で出立したが、光秀のその出兵の本来の目的は主君・織田信長を討ち取るというものだった。討ち取ることは出来るだろうがその後自身は反逆者となり他の織田家臣団から敵討ちで狙われることは必然、もう引き返せない。何より織田家がほとんど天下を手中に収めている中でこの国はまた混乱に陥るかもしれない。そのような思いががまだ頭をよぎる。
大丈夫だ。
その度に光秀はこれまでのことを思い直す。
これは明智家のためだけでなくこの国のため、民のためでもある。この謀反を成功させ、明智家の安寧とこの国の平和を守らねばならないのだ。

主君・信長が変わったのは天正八年頃のことだろうか。この年の8月、信長は長年自身に仕えた家臣である林秀貞と佐久間信盛・信栄父子が追放したのだ。信長は自らの天下統一という覇道を果たすには「君臣の交々計るなり」(主君と家臣の関係は計算で成り立っている)という主君と家臣の徹底した合理主義を説く書物「韓非子」の思想に染まり秦の始皇帝のように「信賞必罰」を徹底した。「成果を出せない」というその理由のみで林秀貞は「24年前に織田家の跡目争いの際に弟・信行に味方した」という理由、佐久間信盛・信栄は「8年前の朝倉討伐の際に信長に口答えした」「けち臭い蓄財をした」という取って付けたような理由で高野山に追放されたのだ。林秀貞は筆頭家老という地位にあったにもかかわらずだ。光秀自身は天下統一後の統治のためには孔子が説く「徳治主義」が必要だと考えていたため、信長とは嚙み合わなくなり始めていたのだ。

さらに信長と噛み合わなくなったのは、「四国征伐」だ。光秀は土佐の長宗我部家と縁があった。家臣・斎藤利三は土岐氏と関りが深く利三の母の再婚相手は長宗我部家の家臣であり利三の兄は再婚相手の家の婿養子で、利三の妹は長宗我部家当主・長宗我部元親の正室である。
長宗我部家は利三・光秀を通して信長と同盟を結び信長の支援を受けて発展し、土佐の一豪族でしかなかった長宗我部家は土佐一国・阿波国の半分をすでに支配し、四国平定の許可を信長から受け、四国制覇を目指し邁進していた。ところが、信長は突然、方針転換しかつての敵であり、崩壊寸前まで追い込んだ三好康長率いる三好氏に肩入れし、四国制覇は諦めろと通達したのだ。これを長宗我部元親は約束違反と激怒し、信長の意向を無視して四国制覇に動いていた。これを信長は謀反と断じ、信長の三男・信孝を大将に長宗我部家征伐を決定したのだ。
恐らく四国に関する方針転換の原因を作ったのは羽柴秀吉だろう。三好家家臣・三好吉房は妻の弟が羽柴秀吉であり、しかも三好康長の養子となった三好信吉は三好吉房の長男、つまり秀吉の実の甥という間柄であるからだ。
もし長宗我部家が滅亡すれば利三の兄と妹は命が危なくなり、三好氏が四国を支配すれば羽柴秀吉が織田家での地位をさらに確立するだろう。さらに長曾我部反逆の責任を問われれば光秀は林秀貞と佐久間信盛・信栄父子のように失脚しかねないのだ。

そしてこの謀反を起こす決定的な理由になったのは、信長の「唐入り」つまり明国への侵攻である。信長は諸外国を次々侵略し植民地にしていく西欧列強に危機感を感じ、また膨らみ続ける家臣への領地にも頭を悩ませていた。そして有力な家臣を異国の地へ送れば謀反も防げると考えてのことだという。
だが約百年も続いた戦乱の世がようやく終わろうというのにそのような戦に行かされてはたまらない。光秀は信長に会い、その計画を止めるように直訴した。だが、足蹴にされ相手にされなかったのだ。明国への侵攻は明らかに冥府魔道の道であり、外交と調略を持って国力を高め、内政を安定させることこそがこの国のためだと光秀は考えていた。

そんな事を考えながら進んでいたためか、斎藤利三から声をかけられた。
「大丈夫でございます、光秀様。我ら光秀様と心は同じ、信長様を皆で屠りましょうぞ」
溝尾茂朝も「これも明智家のため、我らのため、それにこの国、日ノ本のためでもありまする。全力でお支え致します。」
娘婿・明智秀満も「味方は我らだけではありませぬ。あのお方も我らの味方。我らで歴史を変えましょうぞ。」

なんと、心の迷いが我が家臣たちに見透かされていたのか。不安にさせてしまっていたのかと光秀は自分を心中で恥じた。そうだ、明智家、民の為、この国のために信長様を討つのだ。それに我らにはここに集いし者たちだけでなく他にも心強い味方がおられる。迷うことは何もない。そう信じて光秀軍は本能寺へと向かっていくのであった。

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