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テレビはSNSに降参したのか
いやー。暑い。
とんでもなく、暑い。
この間ね、露天風呂行ったんすよ。
で、のぼせたなー思って、
外で風にあたって涼もうとしたんすけど、
椅子が満席でね。
仕方ないなあ、お、丁度いい岩があるやないか。
ってね、腰をおろしたんです。
そんだら、尻に衝撃が走ったんですわ。
なんならジュッて音が聞こえた(幻聴)
おしりが焼けてぼんじりになりました。
はい。本題です。
最近、テレビ番組がつまらないな、と思うようになりまして。
まあ、僕も歳を重ねてオトナなわけで、趣味が変わるなんてことは茶飯事なわけで。なんら不思議なことではないはずなんだけど。
どうもそれだけじゃないような気がして。
気付いたんです。
あ、目新しさがまるでない。って。
少し注意して見てみると、
「最近SNSで話題の~!」とか
「若者の間で流行っている~!」とか、
どこか別媒体で既に人気を博しているものを、後追いで紹介している番組のなんと多いことか。
出演者も、
「SNSでフォロワー○万人の〜!」やらなんやら、
やはり既に別媒体で人気になった人をキャスティングして、そのファン層をターゲットにしているように見える。
要するに、「流行りに便乗する」内容がやたら目につくのである。
そんでもって、昨今の流行りを作っているのはほぼ間違いなく、SNSなのである。
だって、さっきの例も
2/3が「SNSで人気」なんだもの。
流行りに便乗したとて、後追いに目新しさはないのである。
まして僕なんかはピチビチの若者であるから、
「SNSであるものが話題に!?」
とか煽られても、既に知っているのである。
そりゃつまらんわけである。
昔は、違った。
うわ。僕ももうこんな台詞を吐くようになってしまったか。ピチピチの若者が聞いて呆れるわ。
でも本当に、少し前までは様相が違った。
テレビ番組は目新しく、面白かったと思う。
まずもって、流行とはテレビが作るものだった。
小学校では「エンタの神様」に出ていた芸人の一発ギャグが流行りに流行っていたし、完全に無名の芸人が、番組の企画で「珍獣ハンター」の肩書を手に入れ大人気になった。
そんなテレビが、いつから「後追い便乗マン」になってしまったのかはもはや言うまでもない。
流行りのつくり手の座は、いとも簡単にSNSに取って代わられた。
SNSは第一に、発信者の大衆化を成した。
それまで、コンテンツはテレビ制作会社によって作られ、テレビ局によって発信されていた。
それがSNSの登場により、誰もが作り、誰もが発信できるようになった。
よってテレビが作り出すコンテンツ以外にも、膨大なコンテンツが世に放たれ始めた。
ここにおいてまず、流行を作り得る者が不特定多数存在する環境が生まれたのである。
以上の環境変化は非常に重大なもので。
それまで存在しなかった「大規模な流行が、起点を定めずに生まれる」という事象を引き起こしたのだ。
小さな流行は、そこかしこで生まれていたはずである。友達の間で交換日記が流行ったりとかね。
でも、SNS誕生前には、流行の広がりには物理的な障壁があった。口コミでしか広まらないから、地域や世代に限定されていた。
ほぼ唯一、それらの制限なくコンテンツを流行らせる手段を持っていたのが、テレビだったのだ。
ところがどっこいSNSである。
コンテンツ制作者が不特定多数であると同時に、それを評価し拡散し得る聴衆も、不特定多数。
どこからでもコンテンツが生まれ、どこかで流行ったら、どこまでも際限なく広がっていく。
第二に、SNSは圧倒的な速さを持っている。
コンテンツ制作には時間がかかる。企画、構成、キャスティング、撮影、編集等々。
僕は業界人ではないからムチムチの無知であるが、多くの人が関わり、時間をかけて制作されることは想像に易い。
SNSは、リアルタイムで状況が変動していく。
次から次へと新たなコンテンツが生まれ、流行りの流速は目が回るほどに加速した。
こうなってしまったら、テレビに勝ち目はない。制作に時間を要するコンテンツは、流行についていけなくなる。
そもそも、テレビは流行を作っていた側であって、流行に乗るという仕事には向いていないのではないか。
で、このまま流行に追従する番組制作を続けても、テレビ業界に未来はないのではないかと案じている。
だって、日々目新しいコンテンツが生み出されるSNSと、既出のコンテンツを再生するだけのテレビ、どちらが興味深いかは一目瞭然だもの。
”流行紹介バラエティ番組”は、白旗なのである。
すなわち、マスメディアの、SNSに対する降伏の象徴である。
ここまで全面的にテレビ業界をボロカスに書いてきたが、僕はテレビが好きである。
そして、テレビがSNSと共存することも可能だと思っている。
なぜなら、テレビはSNSに対して、僕の考え得る限りでは唯一の、そして圧倒的な優位性を持っているからである。
それは、「テレビは供給する情報の取捨選択を行える」という点である。
SNSは、プラットフォーマーによって営まれている。そしてコンテンツ制作者は、そのプラットフォーム上にコンテンツを公開する。そしてプラットフォーム上に溢れた数多のコンテンツから情報の取捨選択を行うのは、僕ら閲覧者である。
ここにおいて、僕らが閲覧するタイミングまでに、情報の取捨選択という行為は行われない。ように見える。
この「ように見える」というのが重要なポイントで、僕たちはインターネット上の情報を、「誰かの作為によって操作されることのない大量の真実」であると思い込みがちである。
実際には、SNSでは誰でも情報の取捨選択が可能だ。
コンテンツ制作側は、閲覧者に与えたいイメージによって情報の取捨選択を行うことができる。「切り抜き報道」や「フェイク動画」なんて言葉は耳に新しい。
プラットフォームを提供しているだけに見えるプラットフォーマーも、情報の取捨選択を行っている。閲覧履歴や検索履歴、またはそれにとどまらないビッグデータを使用し、表示するコンテンツを絞り込むとか。
で、最終的に僕たちがどのコンテンツを閲覧するかを取捨選択するわけである。ここでも、「自分が納得できる情報だけを検索して閲覧する」みたいな情報の偏りが発生する。
これだけの取捨選択を経た情報は、危険である。
「誰が、どんな意図でもたらした情報なのか」が全く見えなくなっている。
その上、「誰かの作為によって操作されることのない大量の真実」であると思い込みがちなのだからタチが悪い。
対して、テレビで放送されるコンテンツは単純明快である。
テレビ局が伝えたい情報を、テレビ局が供給しているのだから。
よく、「テレビ局による偏向報道だ。公平性に欠いていてクソだ。」という論調を見聞きするが、全くお門違いな話で。
「誰が、どんな意図でもたらした情報なのか」が明確であることは、この上なく公平である。
例えば先ほどの「テレビ局による偏向報道だ。公平性に欠いていてクソだ。」という意見にも、偏向報道であるという判断を下すだけの情報が必要である。それは、該当テレビ局のスポンサー企業に関わる報道だったのかもしれないし、国政に生かされたテレビ局だからかもしれない。
いずれにせよ、情報の取捨選択を行う者と情報の供給者が同一であり、そしてその素性がある程度明かされていることは、僕らが何らかの情報を評価するうえで非常に重要である。
このテレビの特性は、そのままコンテンツ制作にも活きると思うのである。
僕らがSNSで閲覧するコンテンツは、広大なようで実は非常に狭いものであると思う。先ほど述べたように、閲覧する情報は不特定多数のプレイヤーと、閲覧者自身によって取捨選択されている。価値観が大きく変わるような、未知との遭遇のようなコンテンツとの出会いは意外に少ない。
テレビにおいては、最終的にチャンネル選択など、閲覧者自身による取捨選択はあるものの、圧倒的に多様な情報を閲覧者に(半ば無理やり)届けることができる。ここには、新たな出会いが多く秘められているのである。
僕は、家で暇なときには基本的にテレビをつけている。特に見たい番組でなくても、なんなら見ていないのにつけている。すると、たまにアンテナに引っかかるのである。
ある日、テレビから珍妙な音楽が流れ始めた。
「私玉虫のタマミ♪こちら私の先生♪玉虫厨子♬」
わけがわからない。なんだこれは。と引き込まれ、玉虫厨子を検索。ああ、昔、歴史の教科書で見たことがある気がする。なんだっけこれ。と、僕は新たな見識を得た。
これ、「びじゅチューン」という番組だったのだが、僕はこれに大ハマりして、毎週視聴するようになったとさ。おしまい。
と。いう具合に、情報を閲覧者が取捨選択できないことによる新たな出会いは、テレビの持つ大きな魅力だと思うのである。
ちなみにさっきのびじゅチューン、「何にでも牛乳をかける女」という楽曲がSNSでバズっていた。テレビがSNSに負けじと流行をつくり出す一つの例となろう。
無知蒙昧が何を偉そうに。ではあるが、テレビには是非、既知の流行ではなく、新しい出会いを発信してほしいと願う。
まあつまり教訓としたいことは、SNS上の情報は鵜吞みにするな!!である。