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社会構成主義ってなんなのだよ

前回の記事に、友人がコメントをくれまして。

あ、まだ前回の記事を読んでいない人!読んできたほうがいいぞ!まじで!

で、コメントなんだけど、

「社会構成主義的な生のありかたを追求するのにもう一歩踏み込むと違う見方できるかもよ(原文ママ)」

とのこと。

僕にはインテリぶる気なんてさらさら無いので、言わせていただこう。

何を言っているんだこの人は。何を言っているんだこの人は。え、何を言(以下略)

どうも「社会構成主義的な生のありかた」について追求することにもう一歩踏み込めば、更なる知見を得られるかもしれないらしい。小泉。


「社会構成主義的な生のありかた」ってなんなのだよ…?


というわけで、まずは社会構成主義について、安易に、さらっと調べてみた。難しかった。なんで学者ってわざと難しい言葉チョイスするんでしょうね。前回登場の小浜さんもしかり。もう少し無知蒙昧な愚民たる僕に寄り添ってくれてもいいでしょうが。ぷんすこ。

ぷんすこしながら得た社会構成主義についての僕の見解を述べておきます。僕の見解です。よろしいですね。

社会構成主義とは、世の中の事象は人間同士の関係によってつくられるという社会学の立場のことを言うらしい。

例えば現代のお金は不換紙幣であって、要するに物質的にはただの紙切れなんだけれども、人々がその紙切れに一定の価値を認めているから、お金はお金として機能している。とか?あってるかは知らん。

企業の「時価総額」なんて概念もそうかもしれない。時価総額ってのは企業の価値指標のひとつだけれども、例えば電気自動車メーカーのテスラは時価総額が約8500億ドル(2022年1月30日時点)であって、日本の雄トヨタ自動車が半分以下の約3100億ドルである。でも、2019年の年間販売台数では、トヨタがテスラの約30倍も売り上げている。

時価総額には株価が大きく関係していて、要するに世界の投資家たちが「テスラの株式が欲しい!」と思ったから株価が上がり、時価総額が上がるのである。「テスラのほうがトヨタよりも価値がある」という現実は、売り上げなどの事実によってではなく、投資家(人間)たちの関係の上で成立している。とか?

こういうことですかね!?有識者!!


さて、じゃあ友人の言う「社会構成主義的な生のありかた」とはなんなのだよ…気が重いぜ……

唐突に光が見えまして、宗教について社会構成主義的に論じた学者さんがいたそうですぜ。

宗教といえば、前回の記事で「誰も知り得ない「人生の次」を見出す営み」みたいな考察をしていた。ここに社会構成主義を持ち込んでみよう。

すると、信者のコミュニティの中では「人生の次」というものが共通認識として成立していて、それはつまり、宗教内での社会においては「人生の次」は存在することになるのである。

そうすると、「人生の次」から俯瞰して「今の人生」を見ることができるから、人生に意味や目的を見出すことができる。ことになる。

「人生の次」をより良くするという意味や目的が、現実に存在するから、科学的には全く意味のない行動を、目的意識を持って行うことができる。それが宗教にほぼ必ず存在する「儀式」なるものたちだ。

そこでは、本来無いはずの「意味や目的」が、信者(人間)たちの関係の上で成り立ち、存在する。

そして、このことは人間の生のありかたを変えるはずなのである。

一般に「自分自身の生の充足」と言えば、それはもう「今の人生」において欲求を満たすことである。

しかし、宗教的コミュニティにおいて「人生の次」が存在するなら、「自分自身の生の充足」は、今の人生を超えた、教義上の最終目的へと向かっていく。だから、「今の人生」での欲求を満たすことは、必ずしも生の充足には繋がらない。

例を挙げるなら、日本の仏教における「即身仏」が良さそう。説明めんどくさいから良さげなウェブサイトのリンク貼っておきます。

即身仏になるために、修行者は絶食して命を絶ち、ミイラとなる。本能的な生の充足とは真逆の行為である。彼らには今生を超えた生の充足が存在し、それを目的とした生のありかたを持っていたのであろう。


結局この思索の終着点が見つからないのだが…

とりあえず、社会構成主義なるものの立場に立てば「人生の意味や目的を問うことはできない」と断ずることはできなさそうである。

新たな知見、発見である。

教養深い友人に感謝。


僕のインチキ哲学探訪は続く…


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