小さな世界なのだよ
移動手段の話。
文明が発展して、現代には便利な移動手段がたくさんある。なんなら、徒歩で移動する機会の方が少ないくらい。近所にお買い物なら自転車。郊外のショッピングモールから、かなり長距離の旅行まで、幅広く活躍する自動車。通勤には電車。とっても遠くに行くなら飛行機や新幹線。移動距離や用途によって、僕たちは様々な移動手段を選択している。
移動手段の発展によって、人間の知る世界は広がった。これは間違いない。飛鳥時代に生まれた日本人にとっての世界とは、日出る処と、日没する処。あとはその周りの小国くらい。これだって、為政者や実際に旅をした遣隋使たちだけが知る世界であって、庶民にとっては自分の生きる国だけが、世界の全てだっただろう。
現代に至っては、地球上ならば大体どこにでも行ける。命懸けで登頂しなければらないエベレストだって、ヘリコプターを使えばちょちょいのちょいだ。地球上で人類が到達できていないのは、海溝の奥底、深海の世界くらいだろうか。とにかく、移動手段の進歩は各個人の知りうる世界を、これでもかと広げてきた。そして、これからも。100年後には、万人が宇宙を旅行できるような移動手段が出現しているかもしれないし、遥か未来には、太陽系の外にだって行けるのかもしれない。
一方で、発達した移動手段は、同時に僕たちの世界を狭くしている。逆説的だが、確かなことだと思う。
少し話が逸れるが、僕はケチである。アルバイトを始めて自分でお金を稼ぐようになってから尚更。どのくらいケチかと言うと、最寄り駅の駐輪場に自転車を停める、1日100円をも払いたくないくらいである。
我が家から最寄り駅までは歩いて15分くらいだから、わざわざ自転車を使うほどの距離でもない。というわけで最近では、急いでいない日には駅まで歩いている。今はスケジュール真っ白マンだけどね。
徒歩で駅まで通うようになって、僕はかなり重大な事実を知る。自転車で通り過ぎてきた道中、見落としてきた物のなんと多いことか。
道端に咲くタンポポ、アリの行列、綺麗な落ち葉、誰かの落とした手袋。季節を運ぶ風の匂い。空を見上げて星を眺めながら帰る夜。歩いて始めて気づく世界が、確かにあった。20年もこの街に住んで、何度も往き来した道なのに、今まで知らなかったことがたくさん。
そういえば、小学生のときだって、世界が狭いなんて思ったことはなかった。生活圏は近所と通学路、あとは学校くらいだった。生活圏は狭かったけど、世界は広かった。特に通学路なんて、大冒険だった。学校帰り、寄り道ばっかりして、何度怒られたことか。
いつから、身の回りに溢れる小さくて広い世界に、目もくれなくなったのだろう。
それはきっと、中学校に入って自転車通学を始めてからだし、高校に入って電車通学を始めてからだ。大学に入って、自動車の免許を取得したときも、僕の世界は広がったと同時に狭くなったかもしれない。
速く移動できることで、人間はより遠くを訪れることができる。でも、その道中に溢れる世界に触れることはできない。
極端な話をしてしまえば、飛行機でヨーロッパに訪れた人と、シルクロードをはるばる、ローマまでの長旅を終えた人では、知っている世界の広さは全く違う。移動距離は同じでも、飛行機では地球の広さを、道中に広がる世界を知ることはできない。
文明によって手に入れた、広くも狭い世界。それによって忘れられがちな、身の回りに溢れる世界。どっちが良いとか悪いとかってことじゃない。でも、ゆっくり歩いて思い出す、小さくて広い世界を、捨てないでおきたい。僕の街の、ちらほらとしか星が見えない夜空だって、きっと広い世界に繋がってるはず。
こんなことに気づけるのなら、僕のケチな性分も悪くはない。1日100円浮いたら、月1で美味しいご飯食べられるし。徒歩バンザイ。ケチ万歳である。
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