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帝王教育

悠仁親王殿下に対して、帝王教育を受けてない!とバッシングする人たちがいる。
そんな人には必ずその帝王教育って具体的に何?と聞くんだけど、まともな返答を貰えたことは一度もない。

論語を読むことや歴代天皇について学ぶことを挙げてきた人もいたけど、
殿下がそれをやってないと何故断言できるのか。
これは憶測だけどそこは当然学んでおられるのではないかと思っている。
特に歴代天皇について学んでないなら、蜂子皇子の陵墓になんて行くわけないと思う。

大体、「帝王教育でこれこれやってますー」なんて具体的に公にするの、品なさ過ぎでしょ。
秋篠宮殿下も妃殿下も絶対そんなことはしない。

我々は御簾の奥から時々漏れ出てくる情報にうっとりしてれば良いんですよ。

でも、かつての天皇がどのような教育を受けていたかは、恐らく具体的な記録もあるだろうし、単純に個人的に興味がある。
というわけで、

を読んでみることに。
これによると、当時の皇族や華族は里子に出される習慣があったそうで、
昭和天皇も生まれてすぐ海軍中将の川村純義に預けられた。

皇太子夫妻に第一皇子が生まれる前に、明治天皇から養育掛を命ぜられたとき、川村は緊張しながらもこの重い役目を引き受けることにし、自らの信念にもとづいてこの国の帝王としての望ましい教育について、前述のように五つの方針をたてた。その方針とは、平易に言えば「心身の健康を第一とする」「天性を曲げぬこと」「物に恐れず人を尊ぶ性格を養うこと」「難事に耐える性格を身につけること」、 そして「わがままや気ままな癖を許さない」という内容であった。この方針は、明治天皇にも皇太子にも
快く受けいれられた。

将来欧米人との親善があることを考えて養育棟として洋館を建てたとか。

3歳の頃川村純義が病気で辞退、その後青山御所内の「皇孫御殿」に移り、養育掛として足立たか、清水しげ子が携わるようになる。
特別変わった教育をしたわけではなく、何かやらかしたら一般の子育て同様に叱っていたらしい。

更に5歳になる年に、皇孫御殿に幼稚園が置かれる。これは附属幼稚園がある華族女学校が学習院女子部になったのにあわせて作られたとか。
ここでの学友も選抜されたメンバー。

そして明治41年に学習院初等科に入学。
前年に乃木希典が院長に就任している。

明治天皇は、皇孫教育の方針として、人格にすぐれた人物を師とし、主に人間教育に力をいれてほしいと望んでいた。こうして白羽の矢をたてたのは、陸軍大将で軍事参議官の乃木だった。軍人としては、日露戦争で勲功を立てはしなかったが、その剛直で、真摯な人間性に明治天皇は信頼を寄せた。乃木もまた明治天皇の期待にこたえようと、明治四十年一月に第十代の院長に就任してからは、率先して皇孫教育の方針を練り、それを教職員になんども伝えた。

要するにこれ、昭和天皇の帝王教育のために院長になったってことで良いんだよね?
時々参内して明治天皇に会っていたそうだ。皇孫教育の内容について報告していたのではと保阪は述べている。
また生活していた皇孫御殿においても規則正しく、神宮への遥拝や両親の写真への挨拶も忘れずに過ごしていたとか。

両親である皇太子と節子妃とは離れて暮らしていたが、時々団らんを囲むこともあったとか。
注目すべきは、

皇太子の日常は、東宮御所で帝王学の個人授業を受けられるか、それとも行啓に赴かれるかといった日々だったが、このほかに新たに東宮御所で養育されている第一皇子と接するというスケジュールが加わった。

父親の嘉仁皇太子も未だ帝王学の途中だったのだ。

明治天皇が崩御し大正になり、まだ11歳だったが皇太子として東宮御所に移る。
卒業後は御学問所で帝王学教育を受けることになる。
総裁には東郷平八郎、それぞれの科目にも第一人者が携わった。
学友は選抜された5人。

ざっと要約するとこんな感じ。
これらの進路選択においては毎回、検討に検討を重ねられていた。
決して、学習院に入れればそれでOKという安易なものではなかったとわかる。
それどころか、学習院なんて単なるハコに過ぎず、厳しく選抜せねばならない重要事項とはどんな人間と関わるかだと認識されていたようだ。

翻って現代の学習院、ただの私立の学校法人でしかないわけで。
このような過去の天皇の教育について熟知した宮内庁や皇族自身の意向がどれだけ反映されるものなのか?

学習院に通わせさえすれば最低限の帝王教育は満たせると言いたげな人が良くいるけど、
それは戦前ですら成り立たないとわかるし、
豊富に学校がある現代において、ハコとしての役割が果たせる学校は他にもあると考えてもおかしくない。
あくまで重要なのは、誰と、どんな方針で関わるか。

ご自身も学習院を出て娘二人も通わせた秋篠宮殿下と妃殿下が、
学習院がハコとしても、そして(昭和天皇のように至れり尽くせりの教師陣を選べない現状から)所属する人材においても相応しくないとお考えなのなら、
それはそこらのYouTuberや週刊誌の御用教授よりも正しいご判断だろうと考えるべきだろう。


帝王教育の話とは別に、昭和天皇はどんな人物だったかもところどころに記されていて興味深かった。
ざっとまとめると、生真面目で、几帳面で、穏やかなお人柄だったと。
運動神経は良いわけじゃないけど、なんでも熱心で横着しない。
関係者のそんな証言が記されている。

また、欧州を歴訪したことが昭和天皇にとって本当に大きな経験だったようで、
特にジョージ五世が立憲君主制について話してくれたことがずっと頭にあったのだと後に語っている。

その「君臨すれども統治せず」の教訓と、明治天皇による五箇條の御誓文、
これを生真面目に律儀に守り続けたのだと保坂は述べている。

そしてその結果、戸惑い、時に反発しながらも軍部の暴走を許してしまった一面もあるのではないかと。

私は今まで、昭和天皇は古くて伝統的な考え方の天皇で、
上皇陛下はそれに対するカウンターに近い考え方をお持ちなんだと勝手に思い込んでいたが、
全くそうではなく、むしろ基本的には父の考え方を踏襲していらっしゃったんだとわかった。

そして今後もずっとそうなるんじゃないかなあ。
五箇条の御誓文、今読んでも全く違和感がない。

悠仁親王殿下の今後について、海外留学も考えていらっしゃると皇嗣殿下と妃殿下がご回答されたわけだけど、昭和天皇からずっとこれは既定路線。

いつになるかはわからないけど、その時には昭和天皇とジョージ五世のような交流が殿下とチャールズ陛下の間にあったらいいな。
私はそんなニュースをうっとり眺めるだろうな。