歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「光る君へ」皇位継承を考察してみた
NHK大河ドラマ「光る君へ」は、25年君臨してきた一条天皇が崩御し、直前に譲位された三条天皇が即位しました。ここから、皇位継承をめぐる三条天皇と藤原道長との駆け引きが始まっていくのです。
現在のように皇室典範で皇位継承順位が明文化されている時代とは違い、平安時代の皇位継承には、時の天皇や治天の君の意向ばかりか、その時々の政治情勢や権力者の存在など複雑な要素が絡み合っていました。
大河ドラマの時代から少し前、第62代村上天皇の後継者として、冷泉天皇が即位しますが、わずか3年で弟の円融天皇に代替わりします。これ以降、冷泉系と円融系の天皇が交互に誕生するという形ができたのです。
円融天皇が退位すると、次は冷泉天皇の皇子である花山天皇が即位しますが、東宮(皇太子)には円融天皇の皇子が据えられます。後の一条天皇ですが、この時はまだ幼い子供でした。
このあたりは大河ドラマの前半でも描かれましたが、藤原兼家の策略によって花山天皇は強引に出家させられ、一条天皇が即位することになり、その後見人として兼家は摂政の座に就きました。皇統でいえば、再び円融系に戻ったのです。
ただ、東宮には冷泉系の皇子が充てられることになっていたため、一条天皇より年長であるにもかかわらず、居貞親王が就きました。この居貞親王が後の三条天皇となるわけです。
一条天皇には、皇后定子が生んだ第1皇子の敦康親王、中宮彰子が生んだ第2皇子の敦成親王、さらに年子の第3皇子の敦良親王がいました。一条天皇が退位するとなれば、居貞親王(三条天皇)の次の東宮を決めなければなりません。
長幼の序でいえば、敦康親王が東宮となるはずですが、ここに外的要因が加わってきます。すなわち、将来の天皇の後見人に有力者がいるかどうか、ということ。敦康親王と敦成親王とは歴然たる差があったのです。
彰子の子である敦成親王は、藤原道長の孫であり、後継者の頼通は叔父にあたります。もちろん母の彰子もいます。一方の敦康親王は、祖父の藤原道隆、叔父の藤原伊周、母の定子が亡くなっており、有力者が不在でした。
仮に敦康が東宮から天皇になったとしても、遅かれ早かれ道長や頼通の圧力によって譲位を迫られることは間違いありません。現に三条天皇は、わずか6年で退位して敦成親王(後一条天皇)に皇位を譲っています。
その三条天皇は、敦成親王の次の東宮として我が子・敦明親王を立てようとします。三条天皇としては「円融系の敦成の次は冷泉系が継ぐ」という思いもあります。さらなる栄華を狙う道長と、どんな綱引きが繰り広げられるのでしょう?
「光る君へ」の放送もあと1カ月ちょっと・・・やはり最終回は「望月の・・・」の句で締めくくるのでしょうか(笑)
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