歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」織田信長と徳川家康の同盟について考える
大河ドラマ「どうする家康」の第4話は、戦国の世にあって長期間続いた珍しいケースである織田信長と徳川家康の「清洲同盟」について描かれました。家康にとっては大きな転機となった同盟です。
清洲同盟を当時、どのように描いていたのかを調べるため、太田牛一の「信長公記」を読んでみたのですが、一言も触れていません。これはいったいどういうことなのか? 私なりに考えてみました。
信長公記のなかで家康については、桶狭間の戦いの直後、岡崎入りした家康と小競り合いになったことを触れています。その後は、ほぼ美濃攻めに関する記述ばかりとなっているのです。
後世に語り継がれるような同盟関係であり、家康がわざわざ清洲城にやってきたのであれば、側近である牛一が知らないわけがありません。あえて書かなかったのではないかというのも不自然な気がします。
信長と家康は、後の姉川の合戦や長篠の合戦など、多くの戦いで援軍を出し合っているので、同盟関係にあったことは確かでしょう。そこで、私なりに一つの仮説を立ててみました。
桶狭間の戦い直後の時期は、家康も今川方の属将だったので、信長とは敵対関係にありました。信長としては、せっかく義元を討って今川軍を追い払ったのだから、西の美濃攻めに注力したいところだったのです。
そこで、三河の家康に「休戦協定」を持ちかけたのではないでしょうか。信長は国境でいくつかの戦いを仕掛けて圧力をかけ、そのうえで休戦協定を結ばせ、家康や背後にいる今川軍をけん制したのだと思われます。
家康も、本拠地とはいえ自身が三河入りするのは初めてで、三河統一を果たすためには織田軍と戦っている場合ではありません。今川家から独立するチャンスでもあり、信長の申し出は渡りに船だったのです。
休戦協定は破られるケースが多々あるわけですが、家康は結果として律義に守った形になりました。そのことが信長に信頼感を与え、やがて両者の間で本格的な軍事同盟が結ばれていったのではないでしょうか。
この回では、ムロツヨシさん演じる木下藤吉郎が初登場しましたが、とてもうさんくさい人物として強烈なインパクトを与えてくれました。ひょっとすると、大河史上屈指の「嫌われ者の秀吉」になるかもしれませんね。
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