歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」徳川家康の巧妙な論功行賞
大河ドラマ「どうする家康」は、先週12日の放送で関ケ原の戦いが描かれ、勝利した徳川家康による治世がいよいよ始まりました。と同時に、淀殿を中心とした豊臣家にきな臭い動きが見えてきたようですね。
その関ケ原の戦いですが、ドラマでは石田三成方(西軍)の諸侯に対する戦後処理について紹介されました。三成らは処刑、宇喜多秀家は島流し、真田昌幸は蟄居、毛利輝元や上杉景勝は減封という厳しい処分となったわけです。
では、家康を勝利に導いた東軍諸侯の論功行賞はどうなったのでしょうか?
手柄を上げたわけですから、当然恩賞が与えられるわけですが、家康は巧妙な手を使っています。それが「加増しながら転封する」というものです。
尾張清洲24万石だった福島正則は、安芸広島50万石に倍増しました。正則は豊臣秀吉子飼いの家臣だったため、徳川幕府から常に警戒されており、元和5年(1619)に改易処分となってしまいました。
豊前中津12万5千石だった黒田長政は、筑前名島52万石という4倍増となりました。長政は毛利一族などの調略に貢献したといい、家康が高く評価したことがうかがえます。東軍で最も得した武将だったと言えるでしょう。
甲斐府中16万石だった浅野幸長は、紀伊38万石に倍増しました。幸長は大坂冬の陣開戦の2年前に亡くなり、後を継いだ長晟は福島正則改易後の安芸広島へ転封し、紀伊を徳川御三家の徳川頼宣に明け渡したのです。
丹後12万石と豊後杵築6万石を領していた細川忠興は、丹後に代わり豊前中津34万石が与えられ、間もなく本拠地を小倉に移しました。後を継いだ忠利は肥後熊本54万石に加増転封され、明治まで命脈を保ちました。
三河吉田15万石だった池田輝政は、播磨姫路52万石という3倍以上の加増となりました。輝政も大坂冬の陣開戦の2年前に亡くなり、孫の光政は鳥取藩を経て、岡山31万5千石の大名となりました。
伊予宇和島8万石だった藤堂高虎は、新たに伊予今治12万石を加増されました。高虎は徳川家に重臣として仕えたこともあって、今治から津20万石へと加増転封され、最終的には32万石の大名へと出世を果たしたのです。
家康の巧妙なのは、関ケ原の論功行賞を機にもともと徳川家が治めていた東海道を取り戻したところにありました。三河吉田の池田輝政の加増転封も、それにあたるわけですが、ほかにも移封された武将たちがいます。
例えば、駿府府中14万石の中村一氏は伯耆米子17万5千石に、遠江浜松12万石の堀尾吉晴は出雲富田24万石に、三河岡崎10万石の田中吉政は筑後柳川32万石に、それぞれ加増しながら転封されています。
最も有名なのは、遠江掛川5万石の山内一豊が土佐20万石に加増転封された例でしょう。一豊は関ケ原合戦前の小山評定で真っ先に掛川城明け渡しを進言したとされ、戦場での働き以上に功績を評価されたと言われています。
最後に関ケ原で戦った徳川譜代についても触れておきましょう。
井伊直政は、上野高崎12万石から近江佐和山18万石に転封となります。直政は関ケ原の合戦から2年後に亡くなりますが、その後井伊家は彦根藩30万石という譜代大名最大の領地を持ち、複数の大老を輩出していきます。
本多忠勝は。上総大多喜10万石から桑名10万石に転封となりますが、大多喜は次男の忠朝が5万石で新たな大名家を立て、本多家としては実質的な加増となります。忠勝の後を継いだ忠政は桑名から姫路15万石に加増転封されています。
そして、家康の四男・松平忠吉ですが、武蔵忍10万石から尾張・美濃52万石を与えられ、福島正則に代わって清洲城に入ります。しかし忠吉は7年後に亡くなり、領地は家康の九男・義直が継いで、尾張徳川家の祖となるのです。
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