歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」前田利家の正室まつと前田家のその後
大河ドラマ「どうする家康」は、秀吉という重しが消え、いよいよ天下取りを目指そうという徳川家康と、それを阻止しようという石田三成の対立が描かれ、運命の「関ケ原の合戦」へのカウントダウンが始まりました。
秀吉没後の豊臣家を支えていたのは前田利家です。利家の死去は家康にとって追い風になったといっても過言ではありません。そんな利家には、まつ(芳春院)という正室がいました。
今回は「まつと前田家のその後」と題したコラムを書きます。
かつて大河ドラマ「利家とまつ」で、松嶋菜々子さんが主演したことで一躍有名になったまつ。彼女は当時でもたいへんな子だくさんに恵まれた女性で、利家との間には2男9女の11人の子供がいました。
長男は利家の跡継ぎとなった前田利長で、もう一人の男児(二男)が前田利政でした。この二人は年が16歳も離れており、利家死去後の家康への対応をめぐって対立していたとされています。
利長は家康に対して恭順の姿勢を示し、母のまつを人質として江戸に送るということまでしています。一方の利政は、家康への反発心があったとされ、関ケ原の合戦後には利長から「西軍に加担した」と訴えられてしまったのです。
関ケ原後の論功行賞で利長は加賀100万石の大名となりますが、嫡男に恵まれませんでした。結局、利長の後を継いだのは異母弟の利常で、まつの血筋は加賀藩主前田家からは途絶えてしまったのです。
一方の利政ですが、関ケ原後は所領を没収され、隠棲を余儀なくされました。大坂冬、夏の陣では豊臣方からの誘いを断り、徳川方にも加担せず中立の立場を守り、家康からの大名取り立ても断ったとされています。
利政には直之という嫡男がいました。直之は父が改易処分になってしまったため、まつ(芳春院)に引き取られて育てられ、その縁もあって加賀藩主となった利常の元に召し出されて家臣になります。
直之の系譜は前田土佐守家として、代々筆頭重臣となって加賀藩を支えていき、明治維新まで命脈を保って、現在も子孫がいらっしゃいます。つまり、まつの血筋が今も受け継がれているわけです。
まつの娘たちについてもちょっとだけ触れておきましょう。
娘のなかで最も有名なのが四女の豪姫です。子宝に恵まれなかった羽柴秀吉とおね夫婦のもとに養女として出され、宇喜多秀家に嫁ぎます。関ケ原後、秀家と息子たちは八丈島に流罪となり、豪姫は金沢に戻ったそうです。
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