please recharge(短編小説)
志真名の肩は小さい。こんなにか細い体躯なのにもうじき二十歳だなんて、ちょっと信じられない……というか何かの間違いなんじゃないかって、あたしは思う。志真名を抱き締め、体温を感じながら思う。
独り暮らしのあたしの部屋のベッドの上で、あたし達以外の誰もいなくて、少しだけ開いた窓から鈴虫の声が漏れてきている。其以外は、呼吸音くらいしか聴こえない。テレビなんてそもそも買ってないし、そこまで音楽を必要とする人生を送っていない。
志真名は違う。志真名の家には旧い型だけれどテレビがあって、CDコンポも、ヘッドフォンもウォークマンもある。其等はいつも、ひっそりと然り気無く、部屋のどこかで鳴っている。音楽が必要なのだ。志真名のような繊細な子には。
二十時五十分を表示していたデジタル時計が、静かに二十一時十分を示すと、あたしは抱擁を解く。志真名は何も言わずにベッドから腰を上げて、バッグと上着を取り、深くお辞儀をしてから、部屋を出る。アパートのドアがあたしの見えないところで開き、閉まる。鍵のかかる音がする。
あたしの部屋着から志真名の香水の匂いがする。毎度ながら好みが合わない。お風呂に行って、汗も汚れも匂いも流す。志真名の体温や感触も。
姉妹なのに全然違うよな、と思う。でもきっと、其はしょうがないことなのだ。育ってきた環境は、まるで違うのだから。
あたしと志真名は二卵性双生児で、数月前に再会したばかりだった。其までずっと生き別れになっていた。
四歳のときに両親が離婚して、志真名は父に、あたしは母に引き取られた。母の実家に連れていかれたあたしは、祖父母や叔母に囲まれて育った。母の実家は東北の時唄県にあり、元住んでいた恋川県と比べると田舎もいいところだったけれども、別に不満はなかった。でも、進路を決めるとなったときに恋川大学に進みたいと思ったのは、ただ地元に良い大学がなかったことだけが理由ではない。
とくに反対はされず、どころか仕送りまでしてもらいながら恋川で独り暮らしをしている最中、近くの大学とのコンパに参加したあたしは志真名と再会した。声の雰囲気で何となく懐かしく感じてはいたけれど、名前を聞くまでは気付けなかった。
何せ十五年も会っていなかったのだし、志真名は見違えて垢抜けた雰囲気になっていたのだから。四歳の頃の志真名は家のなかにこもって絵本やゲームばかりに没頭する子だったのに。
あたしと志真名が生き別れの双子だったという事実が発覚すると、会は祝福のムードに包まれた。あたしは照れ、志真名は笑った。二次会に行くかどうかの話になり、志真名があたしと二人になりたいと言うとすんなり承諾された。
皆と別れて二人になると、志真名は笑みを消し、あたしの顔を見据えて言った。
ねえ、あの人達って友達?
そうだけど、とあたしは戸惑いつつ答える。其が?
すると志真名は言う。私のほうは、友達じゃないんだよ。
あたしは志真名の言うことが一瞬つかめない。志真名の通う大学の生徒というだけで、たまたま合同コンパについていっただけで、志真名にとっては友人でもなんでもないという意味だろうか? 別に、そういうのって気持ちとしては理解できる範疇ではあるけれど、然しどうして今、あたしに言うのだろうか?
首を傾げて黙っていると、志真名はあたしの手をとって、
ね、飲み直そ。さっきは落ち着かなかったし。
と言って笑った。
恋川駅前は喫茶店ばかりがあるけれど喫茶店しかない訳じゃなくて、ちゃんとファストフード店とかファミリーレストランとかも建っている。ネットではさも喫茶店以外に何もないかのように書かれているが、そんなことは全然ないのだ。景色の七割が喫茶店なのは事実ではあるものの。
西口のファミリーマートと小さめの喫茶店を横切って、『焼天』という焼鳥屋さんに入る。志真名はここの焼鳥はタレが最高だと言った。あたしは塩派だったけれど、折角だからどちらも頼もうと思った。
カウンター席に並んで座り、カワ(タレも塩も)、モモ(タレも塩も)、ネギマ(タレ)を頼んだ。志真名も同じように頼んだので、合計十本の焼鳥を注文することになった。生ビールも二杯。
志真名は料理を待つ間、あたしの大学生活について彼是と訊いてきた。あたしは正直に答えた。隠すことは何もなかった。
あたしの彼氏の話題になって、志真名はいっそう興味を示した。どれくらい会っているのか、泊まったりするのか、どの程度受け入れてもらっているのか、そんなことを矢継ぎ早に質問してくる志真名にちょっと引いてしまったが、先に来たビールを飲むとテンションが上がって、抵抗なく言うことができた。
焼鳥を食べ終わるまでの間に、あたしも志真名も三杯のビールを飲んだ。志真名はそこまで酒に強くはなかったらしく、店を出るときはもうべろべろだった。割り勘の約束をしていたので、志真名の財布からお金を出した。そのときちょうど、お札のところにプリクラらしきものが入っているのに気付いて、確認したかったが会計中なので止めておいた。
志真名に肩を貸しながら、あたしは自分の住んでいるアパートに向かった。生憎、あたしの財布にも志真名の財布にも、タクシーに乗れるだけの余裕は無さそうだった。志真名に、今日はあたしん家に泊めるからね、と言うと、聞き取れない発音で何かを言って、其から眠ってしまった。
志真名のブーツを脱がせて、あたしの寝室に連れ込んだ。ベッドに寝かせ、キッチンでコップに水道水を汲み、志真名を起こして飲ませた。
少しだけ覚醒した志真名が、ここどこ、と言うので説明すると、ありがと、と緩やかに頭を下げ、其からベッドに身体を倒してしまった。
ごめん、飲み過ぎたみたい。
天井に向かって薄目を開けながら、志真名は言った。
弱いんだったら節制しなよ、とあたしは言った。すると志真名は、
そんなの、飲むの自体初めてなんだから解ってる訳ないじゃん。
と笑い、確かに十九で自分のアルコール耐性を把握してるほうが間違ってんのか、とあたしも笑う。でも把握しちゃってるんだからしょうがない。其にみんなそんなものだ。
そう言えば、とあたしは言う。志真名、焼鳥のときあたしの彼氏の話に興味津々だったけど、志真名は居ないの?
志真名はちょっと間をおいて、付き合ってる人ならいるよ、彼氏じゃないけど、と言った。
これはどういう謎々だろう。取り敢えず思い付くのは志真名レズビアン説だけれど、其は即否定される。志真名は言う。
彼氏って呼びたくないの。付き合ってる人、って感じ。恋人とも呼びたくない。
色々、複雑なの? 悩みあるなら聞くよ。
反射的にそう言うと、志真名は、
悩みってか、質問だけどいい?
と言い出すので、一先ず頷いておく。
すると、まるで最初から用意してあったみたいに流暢に、志真名は問い掛ける。
友達じゃない人と仲好くして、恋人じゃない人と付き合ってる私って、間違ってると思う?
すぐに返答するのは、流石に難しかった。少なくとも其が志真名の生き方なら、軽率に否定すべきではない。けれど、そのままずっと生きていくというのも幸せにはなれなさそうで、でも再会したばかりの双子にそうやって言われたところで心に響いてくれるだろうか。今の酩酊の残る志真名に否定的な言葉は送るべきじゃない気がする。でも、志真名はあたしが本心じゃない答えを言えば見抜いてしまうかもしれない。そんな気がした。
返答に窮していると、志真名は微笑んで、
まあいいや。ねえ、一緒に寝ようよ。
と言った。
良いけど、狭くない?
あたしがそう言うと、だから良いんじゃん、と志真名は微笑を崩さなかった。
志真名の寝ているベッドに、あたしはおずおずと並んだ。あたしのベッドなのに。同じベッドで寝転んでみると、意外と違和感は薄かった。記憶が朧気なので確証は持てないが、引き離される前はこうして一緒に寝ていたような気がする。電気を消すと、暗闇のなかでぼやける志真名の顔がまだ笑っているのに気付く。
志真名は言う。
私、わかってる。自分が間違っているんだって、自分がずれているんだって、わかってる。わかってるから、心配しないで。
其はあたしに向いた言葉だったのか、自分のための言葉だったのか、理解し損なう。
志真名の身体から放射された熱があたしの身体から放射された熱と合わさり、いつもより暑いベッドのなかで、案外すぐに眠れる。
翌朝、志真名は軽度の二日酔いに唸りながらではあったが、起き上がるのも身支度を終えるのもてきぱきと済ませた。あたしが歯を磨き終えたときには既に、玄関から出ようとしているところだった。
帰り方解る、送るよ、とあたしは言った。
別に大丈夫だよ、と志真名は言った。
其から、そうだ、とメモ帳を取り出して一枚千切り、壁を下敷きにして何か書き始めた。
往生しているあたしに、志真名はメモを差し出した。其は何処かの住所と、電話番号と、バスストップの名前だった。
私の住んでるところだよ。今度遊びにおいでよ。事前に連絡してくれれば時間指定するからさ。
志真名はそう言うと、最後に恭しく一礼して、出ていった。
少し経ってからあたしは朝風呂を済ませて着替え、恋川駅に向かった。大学は駅から近く、急いでいない限りはバスを使うまでもない。今日は三限目からなので、更にゆっくり向かって良いくらいだった。
大きくて水柿色をした校舎の前で時間を確認すると、まだ余裕があった。大学の近くの喫茶店に入ると、カウンター席に知り合いの船原さんがいた。隣に座ると、船原さんはあたしに気付いて笑った。
船原さんは、つい最近彼氏と別れたばかりで、その彼氏への未練はないにせよ、どことなくもて余している状態なのだという。時間もそうだし、愛情的な意味でも。
やっぱりさ、誰かを愛しているときって幸せだし満ち足りているからね。愛する相手がいなくなったからって何かを愛したい欲求も鎮火させられるとは限らないんだよ。
詰まり欲求不満だね、と船原さんはウインナーコーヒーを飲みながら言った。
あたしなんかは、其は普通に寂しいって言えば良いんじゃないのかと思うけれど、まあ船原さんの気持ちなのだから船原さんの好きに捉えればいい。
あたしは訊く。ねえ船原さん、友達じゃない人と仲好くして、恋人じゃない人と付き合う子って、間違っていると思う? 妹の話なんだけれど。
唐突な、船原さんの話と全然関係のない問い掛けに、しかし船原さんは嫌な顔ひとつせず、
間違っているとか正しいとかはさておき、危ういと思うよ。
と答えてくれた。
其は実に腑に落ちる表現だった。危ういという言葉は、昨晩の志真名にあたしが感じていた漠然とした不安感を的確に表すものだった。
放っておいたら自殺とかしちゃうかな、とあたしは言ってみる。
船原さんは首を横に振り、死にはしないけれど、と言う。死にはしないけれど、でも救えるなら救ったほうが良いよ。妹さんの状況は詰まり、周囲の人全てに対しての演劇だ。友達ぶって、恋人ぶって。虐められないように、嫌われないように、根暗とか言われないように。きっと君を除く誰にでもそんなことをしている。でも君にはしていない。だって、もし明るい人間を装いたいなら自分が嫌われないように頑張ってるとか気取らせもしないようにすると思うからね。これがどういう意味か解るかな、お姉さん。
解る。あたしは志真名から求められているのだ。SOSを発信されているのだ。志真名はきっと、もうそういう風に努力することに疲れているのだ。更に想像を拡げてみれば、お父さんの前でさえ充実している振りをしているのかもしれない。だからこそ、双子の姉との突然の再会に、何かしらの活路を見出だしてくれたのかもしれない。
だとしたらすることはひとつだったが、その前に講義を受けにいかなければならない。別に真面目な子じゃないけれど、教授には真面目と思わせておきたいから。
あたしは夕方午後五時に志真名に電話を掛ける。五コールで出てくれる。名前を訊かれて吃驚するが、そういえばあたしのほうの番号を教えていないのでこれは当たり前の反応だった。どうやら素で忘れていたらしく、謝られたあとに時間を指定される。
午後の、十時でいい? アパートの前で待っていて。
思っていたより遅い時間だったが、了承した。あたしは九時まで友達と軽く遊んで、コンビニでビールとスルメを買って、其からメモを頼りに志真名のアパートに向かった。九時四十五分に着いた。志真名は既にアパート前に居て、あたしを見つけると控え目に手を振った。
こんばんは。
志真名が言った。
こんばんは。
あたしが言った。
遊びに来るの早かったね、と言われて、早く行きたくて、と答えた。メモを渡してからの時間の話なのか到着時間の話なのかは判らなかったが、あたしの返答に志真名は嬉しそうな笑顔を見せてくれた。志真名の部屋は三階で、305号室だった。
銀色の鍵を捻る手首にうっすらと何かの痕が見えて、訊いてみるけれど、後でね、と言われる。
なかに入るとすぐに、あたしは煙草の臭いを嗅ぐ。志真名からはしない臭い。其に薄い臭気だから、今誰かが吸っているという訳ではなさそうだった。
志真名の部屋はシェルピンクのCDコンポ/同色のヘッドフォン/CDが並ぶ棚/旧型の小さなテレビ/洋服箪笥/テーブル/デジタル時計で構成されていた。布団は押し入れのなかに畳まれているらしい。
コンポの色は可愛いけれど、何だか殺風景だと思う。流石にそんなことまでは言わないけれど。
あたしがレジ袋から缶ビールを取り出してテーブルの上に並べていると、どこからか音楽が流れてきた。ごく僅かな音量で。
あ、ビール買ってきてくれたんだ。ありがとう。
志真名はそう言いながら、テレビの電源をつけた。チャンネルは放送大学で、権威のありそうな初老の男がぼそぼそと何かを言っていた。其から志真名はジーンズのポケットからウォークマンを取り出して操作し、これもまた控えめな音量で、何かを流し始めた。そこで初めて、最初の音楽がCDコンポからのものだと気付けた。ウォークマンはテーブルの上に置かれた。
CDコンポからはタイトルの思い出せない交響曲が、ウォークマンからはエレクトロ系のインストゥルメンタルが、テレビからは知らない人達の静かな会話が流れてきて、其等は同時に届きこそすれ調和することもなく、ただひたすら静かな雑音として部屋に広がるだけだった。
志真名はあたしの顔を見て、煩かったら言って、と言いながらビールを開けた。大丈夫、とあたしは笑いながら、これが志真名の生活なんだな、なんて思った。
なら良いけれど。ごめんね。こうしてないと落ち着かなくて。
別に志真名が謝る必要は全くない。誰だって、自分にとって最適な日常を送るべきだし、あたしはただそこにお邪魔させていただいているだけなのだから。他人の家に上がるということはそういうことなのだ。だから文句を言う筋合いはない。其に、気にしないことが出来るくらいの音量なので実際に文句も浮かばない。志真名が好きな音量なのかアパート故の配慮なのかは少し気になるが、どちらでもいい。
雑音をスルーしたまま、宅飲みが始まる。志真名が冷蔵庫から出してくれたスライスハムも肴になる。あたしがまだ微酔いになりかけたくらいで、志真名がふらふらとし始める。
志真名はその辺にしといたら、とあたしが言うと、志真名はけらけら笑って、大丈夫だよ家だし、と言った。確かに自宅なら酔い潰れて寝ても支障はないけれど、慣れていないはずだから心配だ。見守っていなければならない。あたしはビールを開けるペースを落とす。
ねえねえ、と呂律の回っていない口調で志真名が言う。さっきのあれ、言ったげよっか。
さっきのって?
あの、入るときのあれ。
ああ。あたしは思い出す。あの手首の痕。何かの痕跡。
あれね、内藤くんにやられたの。内藤くん握力強くて、砕けるかと思った。
内藤くんって誰?
付き合ってる人。志真名は薄ら笑いで言う。昨日ね、こっち帰ってこなくてね、内藤くんちょうどサプライズで来てたのにね、其で電話しても出なかったからって怒られちゃった。
暴力を振るわれたの、とあたしは訊いた。
性的暴行かな、と志真名は答えた。手首のは副産物だよ。あ、避妊はしてもらったから安心して。
全然安心出来なかった。志真名が暴行と表現する以上、其は意に反した苦痛な行為だったのだろう。対等であるべき恋人関係にそんなことが起こって良い筈がなくて、でも志真名はこんなの慣れたものみたいな口調で、その内藤くんとやらの人格を察する材料としてはもう充分だ。
志真名、そんな人と付き合ってたって辛いだけじゃん。別れたほうが良いよ。
とあたしが言うと、
そうだね。
と志真名は返した。
そして会話が途切れた。でも静かではなかった。三ヶ所から流れている音と声が、控えめな雑音として空間を淀ませていた。あたしは志真名を見ていたが、志真名は缶ビールの成分表を見ていた。暫くそのままだった。やがて志真名は言った。
煩くてごめん。
煩くないよ。
煩いでしょ? だって、必要ない筈なんだから。
どういうこと?
あたしはこういう風に音がないと壊れちゃうけれど、誰もがそうじゃないって話。
そうだね。あたしには必要ない。
敢えてきっぱりとそう言ってみると、志真名はくつくつと笑った。どうして私達、こんなに違うんだろうねえ。双子なのに。
其は、双子であること以外の殆どが違うからに決まっている。思春期を過ごした環境も、取り巻く人間も違う。母方のほうに引き取られたあたしは祖父母や親戚達と一緒に田舎で暮らしていたけれど、志真名は恋川で、父とふたりきりだったのだ。母が、父は親戚付き合いが悪いので助けてくれる人は少ないだろうと言っていたのを覚えている。
産みの親より育ての親とは言うが、親というのは何も扶養してくれる人間だけではない。友人の種類、環境、経験、立場、其等の要素だって人を育む親のようなものだ。だから違って当然なのだ。あたしと志真名じゃ、色々と。
そうだよねえ。私がずれてっちゃったのは、離婚してからな気がするし。
志真名は言って、三杯目のビールを飲み干す。そしてテーブルに突っ伏してしまう。志真名、布団で寝なきゃ駄目だよとあたしは言う。聞き取れない発音の声で返事をされる。肩を竦め、あたしは空いているスペースに布団を敷いて、志真名を背負って下ろし、寝かせる。志真名に掛け布団を被せる。
さてあたしはどうするべきだろう、と考える。志真名はやっぱり色々と複雑なものを抱えていて、そして其に疲労している。ぽろぽろと溢れてくる自虐のような弱音は、あたしに何をしろと言っているのだろうか。判らない。志真名のような人間に深入りしたこともなければ、十数年越しの双子の妹への正しい干渉の仕方も知らない。
どうにもできず、ただ志真名の顔を見下ろすだけのあたしに、志真名は不意に言う。
ねえ、一緒に寝ようよ、昨日みたいに。
あたしは其に従う。明日も講義は昼からの筈だ。外着のまま、ゆっくりと布団に身体を入れる。志真名は背中を向けてぐっすりと寝ている。酒臭いのはお互い様だ。
テレビも音も消えていて、あたし達の息の音だけが森閑を乱すほどの存在感もなく漏れている。
思い付きで、志真名を後ろから手を回して抱き締めてみる。はらはらするほど小さな背中、狭い肩幅に緊張していると、
おねえちゃん。
と言って志真名は啜り泣きを始めるので、ますますどうすれば良いか解らなくなる。力を緩めるべきかどうかすら。
取り敢えず、この状態が間違っていないのは確かなのだろうけれど。
次の日、志真名より先にあたしが起きる。敷き布団では寝慣れていないせいだろう。志真名はあたしの腕のなかでぐっすりと眠っていて、起こさないように腕を抜こうとするけれど、結局起こしてしまう。
頭の痛みを訴えてくるので、バッグのなかに入れておいた頭痛薬と水を渡す。あたしは、スカートじゃなくてパンツで良かったな、と思いながら自分のシャツの皺を直した。
志真名はふらふらとした足取りでバスルームのほうに行った。あたしはその間に冷蔵庫を覗き、朝御飯を作ってあげようかと考えたけれど、思い直して珈琲を淹れるだけにした。志真名が精神的に繊細な状態なのが判ったうえで、勝手に食材を遣うなんて出来ない。其に、怖いほどに歪みも雑味もない収納模様を乱すのは忍びなかった。もしかしたら偏執的なまでにきっちりと並べることに満足感を得ているだけで乱されることにはストレスがないのかも知れないけれども。
志真名がお風呂から出る前に、持参の歯ブラシで歯を磨いて顔を洗い、流れでメイクをする。作業が終わっても志真名が入浴を終える気配がないので倒れているんじゃないかと不安になる。リビングに戻ってテーブルのうえの缶や袋を纏めていると、バスルームのドアが開く音がするので安心する。
少しして、バスタオルで胴体を隠した志真名が姿を現す。無言で箪笥の前にしゃがみ、一着分の衣類を積んでいく。そして、ゆったりとこちらを向いて、
ごめん、着替えるから廊下に出てて。
と言うので、あたしは従う。
廊下で志真名を待っていると、ドアの向こうから微かに音楽が聞こえてきて、これCMで聴いたことあるかも、とか思う。何のCMだったかは忘れたが、一時期そこそこ気に入っていたような。
志真名と一緒にアパートを出て、『フロッグクロウズ』という変わった喫茶店で軽食を摂る。
食事が終わる頃、あたしは我慢すべきだと思っていたが、つい堪えきれずに言ってしまう。
ねえ志真名。内藤くんって人と、別れる気はないの?
志真名はフォークを動かす手を止めて、あたしを見据える。
どうして?
どうしてって、そんなの、そもそも志真名も恋人扱いしたくないって感じなんでしょ? だったらいっそ、別れたほうが気が楽になると思う。
でも内藤くん、私のこと好きだもの。
好きでも、気に食わないだけで彼女のことレイプする人となんて縁切ったほうが良い。
声、大きいよ。其に大丈夫だから。私は別れる気なんてないから。
其こそ、どうしてよ。
だって、内藤くんが居なくなったら、もっと静かになっちゃうから。
静か?
恋人と思えない人でも、友達と思えない人でも、人である以上は、近くにいれば寂しくないから。
志真名はそう言うと席を立ち、もう行こう、とレシートを持ってカウンターに向かっていった。あたしはその後ろを小走りで追い掛け、ふたりで割り勘で払った。ひとり八百円で済んだ。
あたしが其からどれだけ言っても、志真名は頑として彼氏との絶縁を拒み、小さな傷を増やしながらも交際を続ける。あたしは志真名の家に高頻度で通い、飲んで一緒に寝て抱き締めてを繰り返す。志真名に確認を取ってかた向かうので、志真名の彼氏と鉢合わせたりはしない……という風に志真名はしたかったのだが、一度だけ、件の内藤くんが勝手に部屋に入っているところに志真名と帰ってしまったことがあって、そのときあたしはぞっとしたのを覚えている。
志真名の話から想像していたのはもっと危なそうで、倫理観の欠如していそうな浮わついた風体の人間だった。でも実際は寧ろ柔和そうな、性別問わず別け隔てなく優しくしてくれそうな好青年だった。不潔に見えない程度の長さの黒髪と、年相応に筋肉質な両腕と、純情そうな瞳を見て、あたしは一瞬志真名の別彼かと思ってしまった。彼が内藤くんだと志真名から紹介されたとき、驚きを隠すのに必死で、きっとあたしの表情は強張っていただろう。
あ、志真名のお姉さんですか。志真名から聞いてます。志真名とお付き合いさせていただいてる内藤昇大です。よろしくお願いします。
彼はそう言って会釈した。あたしは反射的に会釈しながら、いや何やってんだよ、と心のなかで思った。あたしはもし志真名の彼氏と会ったらぶん殴るつもりだったのだ。仲好くなんてしなくていい。よろしくなんてされても困る。
結局、その日は志真名の彼氏を殴ることは出来なかった。想定外に温いオーラを放たれて、面食らっているうちにいつの間にかアパートの外に出ていたのだ。そして次の日、志真名の傷はさらに増えていて、曰く、
姉だろうと何だろうと、自分より優先したら浮気も同然とか言ってた。
とのことらしい。
あたしは志真名の家に行き辛くなって、少しの間連絡を取らないでいた。あたしが行くことで志真名のセラピー的な効果があるのは確からしかったけれども、そのせいで傷が増えるのなら別の方法を考えたほうが良いと思った。
でも志真名はそうは思わなかった。ある晩、志真名はあたしのアパートの部屋の前に立って、あたしの帰りを待っていた。不運にもあたしは大学の友達と遅くまで飲んでいた。あたしが帰路についたのは午後十一時半を越えた頃で、その日は予報外れの秋雨が横殴りに降っていて、志真名は午後八時からずっと待っていて、その手に傘はなかった。
ドアの前で唇を紫色にして立っている志真名を見て、あたしは驚きのあまり折り畳み傘を落としてしまった。コンクリートに傘が衝突する音でこちらを向いた志真名は、あたしを見てはにかんだ。
どうしたの。どうしてこんな雨のなか、そんなとこで待ってたの。
だって、全然来てくれないんだから。こっちから会いに行くしかないでしょ。
志真名は平然とした口調で答えた。あたしはそんな志真名の手を引いて、部屋に入れた。そしてすぐにシャワーを浴びさせた。温まり終えた志真名に、あたしのパジャマを貸した。
其から自分もシャワーを浴びながら、失敗だった、と深く悔やんだ。確かにあたしの存在が志真名の彼氏の癪に障って志真名の傷に変換されることはあった。でも、だからといってあたしさえいなければ傷付かない訳じゃあないのに。其だったらそもそも志真名はあたしを求めたりしていないだろうに。あたしは馬鹿か。何と言う馬鹿か。誰かに癒されるせいで傷つく理由が増えることが、誰にも癒されずに『いつも通り』傷付けられ続けることより不幸なんて、そんな筈がないのに。どちらでも傷付くのならせめて誰かが癒そうとしてくれているという事実があったほうがまだ救いがあるに決まっている。あたしは志真名と距離を置いたりするべきじゃないのだ。
シャワーを終えると、志真名はあたしのベッドで勝手に寝ていた。ドライヤーで乾かしたばかりの毛髪がシーツの上に散っていて、その一部は自身の細腕に掛かっていた。手首に青い痣が見えた。
志真名。あたしは言う。志真名、ごめんね。本当にごめんね。
志真名は返事をしなかった。ただ寝息だけを立てていた。あたしは志真名の身体にきちんと布団をかけてから、自分もその隣に寝ようとした。
でもすぐに思い直し、徐に志真名の上に覆い被さり、なるだけ優しく抱き締めた。
志真名はあたしの背中に腕を回した。起きてこそいないけれど、寝顔が幾ばくか安らかなものになった、ように見えた。
こうしているとまるで恋人同士のようだ、と不意にあたしは思った。生憎あたしはヘテロだし、志真名は妹だし、お互いに他に恋人はいるから、あくまで例えでしかないのだが。でも、其くらいがちょうど良いのだとも、あたしは感じる。志真名には今の彼氏以外にぴったりと寄り添う人間がいるべきだし、其に……其に、これくらい思いっきり抱き締めたほうが、あたしも後悔は少なくなるだろうから。
ただ隣で眠るだけに留めたとして、もしも明日、志真名が何らかの理由で、例えば暴走プリウスに轢かれるみたいな突拍子もない理由で死んでしまったら、あたしは抱き締めなかったことをまた深く悔やみ、泣いて歯軋りするだろうから。
もう遠慮したくない、とあたしは思う。
全力で護らないと。図々しくとも。
でもあたしが出来ることはストレスに苦しむ志真名を慰めるくらいで、あたしの家や志真名の家で飲んだり抱き締めたりするくらいで、現実的に志真名に迫っていた不幸を防ぐことは出来なかった。日に日に口数が減ってきたり急にすぐに帰ってしまったりする志真名の様子を心配に思うことはできても、その原因を突き止めたりすることは出来なかった。あたしは全然気付けなかった。志真名が妊娠していることになんて、思い至れなかった。
あたしが志真名の妊娠を知ったのは、志真名がその子を失ってしまってからだった。志真名が其をあたしに教えてくれたとき、志真名は頬を見ていられないほど腫らし、目元の腫れも涙だけが原因とは思えない様子だった。志真名はそんな状態で、あたしの家の前まで歩いてきた。深夜の一時に。
私ね、妊娠してたの。まだ目立つほどじゃなかったんだけど、病院に行って診断されて。
渡されたビールを飲み干した志真名は、虚ろな視線を何もないところに投げながら言った。
相談しなきゃって、内藤くんに、話したんだけど、避妊してたのにおかしい、浮気しただろって言われて、浮気なんてしてないのに。
避妊って、本当にちゃんとしてたの?
してたのに。志真名は言う。ちゃんと、絶対に外に出すようにしてたのに。
……その、ゴムは?
あたしが訊くと、志真名は黙る。もう大学生なのに外出しなら大丈夫とか考えてたのか……と戦慄しそうになるが、でも案外そういう意識って年齢とかよりもカップルとしての関係性によるからなあ、と周囲の友人を思い出す。もしかしたらあの子達もあたしの知らないところで妊娠したり中絶したりしてるんだろうか。って今はそんなことはどうでもいい。今は志真名の話だ。
其で、内藤くんはどうしたの。
どれだけ言っても、内藤くんは疑ってて。志真名は涙ぐみながら話す。其で、喧嘩になって、沢山叩かれて、……お腹、沢山蹴り飛ばされて。
そんな、……大丈夫だったの?
志真名はお腹に手を添えながら、遂に堰を切ったように嗚咽した。あたしは志真名の肩を抱きながら、ひとつの決心をした。もうこれしかない。志真名をこの地獄から引き剥がすには。
これで良かったのかな、と隣の志真名は呟いた。線路を渡る音で掻き消されてしまいそうな、細い声で。
大丈夫だよ。あたしは志真名の手を握りながら言った。大丈夫。
知らない名前の駅で停車した列車に、知らない人達が乗車してくる。車両内の人口密度が高まると、志真名は少し怯えた表情を見せる。
志真名、何も怖がらなくていいからね。ここまで来たら誰も志真名のことは知らないし、お母さん達も快くOKしてくれてるし、時唄県は良いところだから。
あたしはそう言いながら、何だか志真名が罪を犯して逃亡してるみたいだと思ってしまって笑いそうになった。逃亡なのは確かだけれど。
時唄県に着き、あたしの実家に赴くと、母も祖母も笑顔で出迎えてくれた。母は志真名を見て、一瞬だけ戸惑いの表情を見せたが、すぐに笑顔に戻って、
志真名ちゃんだよね。会いたかった。ゆっくりしてね。
と言った。志真名は曖昧な笑みを返した。確かに複雑だよな、父のほうに引き取らせた以上はお帰りなさいなんて言えないしな、とか思いながらあたしは祖母からの抱擁を受け入れていた。こういう風に抱き締めることも、立場上躊躇われるのかもしれない。もしもそうされたら志真名はどうなるのか、想像するのは少し難しい。
母の実家には現在、母と祖母だけが住んでいる。祖母の年金とジャガイモ畑で生計を立てていて、母は家事をしながら趣味半分で造花の内職をしている。二年前に祖父が、半年前に叔母が亡くなった。
だからだろう、祖母も母もあたし達が来てくれて嬉しそうに声を弾ませる。だが、主に話しかけられるのはあたしだった。其も無理からぬことだ。あたしは去年までこの家にこの人達と住んでいたのに対して、志真名は初めての来訪なのだ。血縁者とはいえ、そこにいることにどうしても違和感がある。祖母は其でも四歳までの志真名のことは覚えていたから、その成長に感嘆して色々と近況を訊くなりしてくれている。でも母はそこに加えて離婚したせいで姉妹を引き離してしまったこと、男手ひとつの環境で育たせてしまったことへの罪悪感で巧く接せないようだった。
敏感な志真名は、そういった空気も感じ取ってしまい、
ちょっと外の空気吸ってくる。
と言って家を出てしまう。
あたしはすぐに追いかけ、追いつき、無人販売所のベンチに並んで座る。
志真名、あそこに居るの嫌だった? 居心地悪い?
そんなことない、と志真名は首を振る。ただ、私が迷惑かけてるような気がして。私のためにここに連れてきてくれてるの、解ってるのに。
あのさ志真名、別に迷惑かけて良いんだよ。思いっきり甘えなよ。寂しさも怖さも吹き飛んじゃうくらいに。大丈夫だよ。お母さんもお祖母ちゃんも受け止めてくれるよ。恩返しとかは、志真名が幸せになってからで良いから。
あたしはそう言って志真名を横から抱き締めた。
志真名はあたしの肩に首を倒して、ありがとう、と呟いた。
家に戻り、夕方になって、どれくらい居るんだっけ、と母が言うので、一週間くらいは居るつもりだよ、とあたしは答えた。大学のほうには、病気で休学すると伝えてあった。志真名にも同じようにしてもらった。志真名の心は一日二日でどうにかなるとは思えなかったからだ。
祖母の作ってくれた夕飯を、皆で囲って食べた。母と志真名はそのとき、少しだけ会話をした。当たり障りのないものだったが、そこはかとない緊張感が滲んでいた。
夜になって、お風呂を済ませるとすることがなくなって、就寝の準備を始めた。あたしと志真名の寝室は同じで、畳の間に布団がふたつ敷いてあった。各々の布団にくるまり、消灯してしまうと、秋の虫の音が暗闇のなかで存在感を増した。恋川に住んでいて忘れてしまっていた音色。安心感はあるが、音量が大きすぎて寝つけない。どうして恋川に越す前は普通に眠れていたんだろう、と思いながらあたしは志真名のほうを窺った。
志真名は音のなかでぐっすりと眠っていた。そういえば日頃から雑音がないと落ち着かないタイプだった。ならば、虫の音色は子守唄だろう。
睡眠なんてものは何も考えずに布団に身体を預けて目を瞑っていれば成し得るものではあるけれど、何も考えないことも難しいときがあって、あたしの脳内はどうしても漫然と、思考に走ってしまう。もう自我を得てしばらく経つと言うのに、未だに思考を静める術を知らないのだ。
とっちらかった思考はやがて、志真名について考え出す。
志真名のことをどれだけ理解出来ているのだろうか、と思う。少なくとも、全てを理解出来ている訳ではないだろう。其は有り得ない。他人の全てを理解することは出来ない。自分の全てを理解することは出来ないのと、同じように。
其でも、志真名にとって良い選択が出来ているかどうか、志真名の求めるものを少しでも正しく察することが出来ているかどうかについて、あたしはどうしても気になる。これは訊けば判ることでもない。
あたしの押し付けた親切は、志真名にとっての負担になっていないだろうか? 良かれと思ってやっていることではあるが、裏目に出ない保証はどこにもないのだ。志真名に対するあたしの解釈が全て間違っていたら、もう全ておじゃんだ。
不安に蝕まれてしまう。
余計に眠れない。
音を立てないように起き上がり、寝室を出た。牛乳でも温めようと思った。
台所の戸から光が漏れていた。誰かいる。隙間から覗きこむと、母が窓の外を見つめていた。寝間着姿で、直立不動。
足を踏み入れながら、母に声をかけた。母は吃驚しながらこちらを向いた。あたしは、母が泣いていることにすぐに気付いた。
お母さん、どうしたの。こんな時間に。泣いてるし。
ごめんね、と母は言った。離婚なんてして、ごめんね。
どうして今更そんなことを言うのだろう? もう十五年程も経っているのに謝られても困るし、今までだって何回か謝られた。あたしは全部許した。だのに繰り返し謝り続けているのはどうしてなのだろうか?
謝んないでよお母さん。気にしてないから。許してるから。
でも、ごめん、ごめんね。謝りたくて、謝らないと納まらなくて、ごめんね、ごめんね。
涙声になっていく母を抱き締めながら、あたしはふと、もしかして、と閃く。
ねえお母さん。あたしは言う。志真名には謝ったの?
志真名ちゃんは、と母は戸惑ったような口調で言う。わざわざ起こすのは忍びないし。
謝りなよ。志真名にも。
でも、寝てるんでしょ。
そうだよ、志真名は寝てる。だから起こせば良いじゃん。明日の朝に持ち越したりしたら、うっかり忘れちゃうかもしれないから。
駄目。志真名ちゃん、ちょっと心病んでるってあなたが言ってたじゃない。なのに、そんなことしちゃいけないよ。
そんなことしちゃいけないなんて誰も言ってないよ。言ってるの、お母さんだけだよ。
でも、とごもる母に、
そうだよね、ずっと逃げてきたのに今更謝るの怖いよね。だからずっとあたしに謝ってたんだよね。
とあたしは言う。
そんなことない、と母は慌てるが、あるよ、とあたしは重ねる。
後ろめたいのも解るけど、だからってあたしを身代わりにしないで。お母さんが本当に謝りたいのは、許してほしいのは志真名なんでしょ。
その洞察は大体合ってたようで、母はお手上げと言わんばかりに泣き出す。母の涙でパジャマの肩がじんわり温かくなっていく。気にしない。
母と手を繋いで寝室に入り、ぐっすりと眠る志真名を優しく揺すった。志真名は半目でぼうっとこちらを見つめて、十秒くらいでやっと母が居ることに気がつく。
何。何かあったの。
志真名がそう言うので、
お母さんが志真名に話あるんだって。
とあたしは告げてそそくさと部屋から出る。あたしを追って母も出ようとするが、どうにか押し込める。
戸を閉めきってしまったのでどんな話をしているのか判らないが、あとで志真名に訊けばいい。
でも一時間経っても出てこないので、不安になって覗いてみると、志真名と母が同じ布団で寝ていて笑う。
寂しがり屋同士でゆっくりお休みなさい、なんて心のなかで言いながらあたしはあたしの布団で眠る。
虫の鳴き声がさっきより静かだな、と思う。
どうせ気のせいだろうけれど、その気のせいのおかげで眠りに就ける。
翌朝、志真名のスマートフォンのランプが緑色に点滅している。チェックしなくて良いの、と訊いてみるが、したくないから良いよ、と志真名は言う。
志真名、もうあの彼氏ブロックしちゃいなよ。そうしないとここまで逃げた意味ないでしょ。
あたしは志真名の目を見て言う。志真名の問題は彼氏とか友達とかって存在が遠ざかることへの恐怖心であり、その恐怖心は志真名の抱える呪いのごとき『寂しさ』によるものだ。『寂しさ』が少しでも紛れるならば、彼氏と思えない彼氏や、友達と思えない友達でも、自分の近くに居てほしいと思う心。だから志真名は彼氏をはねのけることがどうしても出来ない。ならば、あの彼氏よりも優しく、温かく、心から愛せるだろう実母や祖母と一緒に暫く暮らして吹っ切れさせよう……というのがあたしの狙いだったが、彼氏からメッセージが来てしまってはその効果も薄れてしまうだろう。
其を危惧しての言葉だったが、志真名は意外にもあっさりとした表情で、内藤くんならとっくにブロックしてある、と言った。
これは同じ大学の子達。昨日からずっと来てた。
え? 具合はどう、みたいな?
言いながら、これ絶対違うな、とあたしは感じた。自分が的外れなことを言っているときって、直感で判る。
違うよ。内藤くんが可哀想だよ、戻ってきて、って。
志真名はそう言って目を伏した。どういうことだろうか。志真名が病欠だと思っているのなら、そんなことを言うはずがない。
彼氏から逃げていることがバレているのだろうか。行きの恋川駅で見つかったのかもしれない。見つけたのは彼氏か? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。どちらにしたところで、志真名の逃亡が伝わっている事実だけは明白だ。
でもこれは志真名と彼氏の問題なのに、どうして志真名の友達が干渉してくる? まあ、あの彼氏は外面が良いので人望もありそうだから、彼氏から逃げようとする志真名に物申す共通の友人がいたっておかしくない。其に、向こう……彼氏からすればつい最近殴って中絶させたばかりの彼女が嘘休みで遠出をしようとしていると知って、いよいよ見放されたと焦っているのかもしれない。其で、電話等をかけてみようにもブロックされているので不可能で、ならばと共通の友人に事情を説明して(その場合、さも自分には何の非もないかのように上手く言って)志真名の連れ戻しに協力させていると考えて良い……か?
具体的な場所とかはバレてるの、とあたしは志真名に訊いた。判らない、と志真名は首を振った。でも恋川駅のどこでバレたかによっては、東北と関西どこに行ったかくらいなら絞られている可能性もある。
其でも日本はまあ広いし、東北というだけで時唄県を絞り込める訳がない……と安堵しかけて、気付く。気付いて、血の気が引く。
志真名と再会したときのコンパで、あたしは自分が時唄県に住んでいたことを言っただろうか?
言った。
そして昨日の駅のホームで見つかったと言うなら、志真名の隣には必ずあたしも居たはずだ。そこを符合して考えられたら、
ねえ志真名ちゃん、男の子来てるよ。内藤って言ってるけど。
と母が寝室に入ってきたので、思考中断。というか考えている意味はない。あたしが、今どこに居るの、と訊くと、玄関で待たせちゃってるよ、と母。志真名はすっくと立ち上がって、あたしに微笑みかける。
お母さん、お姉ちゃん、ありがと。行かなきゃ。
行かせる訳ねえだろ。あたしは跳ねるように腰を上げて志真名を押し退けて部屋から駆け出て、一旦後ろに少し退いて助走をつけて玄関まで走り、玄関の戸が開いていて見たことのある顔の、確か内藤昇大とかいう男が突っ立っていて、あたしはその顔面に拳を叩きつける。遠慮も躊躇もなくぶん殴る。唾液っぽい何かが指の第二関節を少し濡らして愉快じゃない。全く。女子に殴られるってときくらい唾液の分泌抑えとけよ。
とか思ってるあたしの胸ぐらをつかんで怒鳴りつけてくる内藤昇大の声が大きくて、顔も度アップでぶっちゃけ目障りなので眼球目掛けて唾を吐く。唾液合戦。ヒット。敵は怯み、でも片手だけで目を擦れてしまうのであたしを解放するには至らない。
余計にヒートアップした内藤昇大が更に強い怒鳴り声を上げてくる。そしてあたしの頬に平手打ちをかましてくる。痛いと言うか熱い。でもこの屑なら拳でくると思っていたので、気を許せば許すほど遠慮ない暴力になっていくタイプかな、とか何でか冷静な頭が考えたところで、志真名が駆け付ける。
内藤昇大があたしを離して言う。
あ、志真名。駄目じゃんずる休みしちゃ。彼氏として叱りにきたよもー。さ、一緒に帰ろう。
志真名は何も言わずに内藤昇大の高くて穴が小さい鼻に正拳突きを喰らわせる。鼻血を少し出しながら、正に面食らった顔になった内藤昇大が志真名に怒り出す前に、あたしは斜めから股間を蹴り上げる。こんなに思いっきりキックしたの高校の授業でサッカーやって以来だな、とか思う。
悶える内藤昇大にあたしは言う。
帰れ。もう志真名にあんたは要らないから。
志真名に目を向けると、無表情で内藤昇大を見ていた。怒ってもなかったし笑ってもなかった。なんだこんなものか、とでも言いたげな冷めた表情をしていた。
志真名。内藤昇大が呼吸を整えながら睨む。お前、こんなことして、ただで大学に戻れると思ってないだろうな。
戻らないから大丈夫、と志真名は言い切る。私、辞めるから。
内藤昇大は動揺する。あたしも内心驚きつつも、どうにか面には出さないようにする。
だってさ、残念だったね。解ったら本当、とっとと帰ってくれる?
志真名、正気かよ? 大学辞めるって……できもしないこと言うなよ。
うるせえもう金輪際関わってくんな潰すぞ。
ってこれはあたしと志真名どっちの台詞だろうか。志真名だったら吃驚だし、人生に吃驚することは付き物だ。
何にせよ、志真名なら逃げられたところで簡単に捕まえて懐柔出来ると信じていたであろう内藤昇大は、どうして良いか判らなくなったのか、絶句したまま立ち尽くしていて、その間に志真名は傘立て用の壺を持ち上げている。
あまり高くない位置までしか掲げられなかった壺から、あたしは傘を取り出して廊下に放り出す。其で随分軽くなって、壺の位置が高くなる。
志真名、何だよ、何する気で、
と突然持ち上げられた壺の意味するところを把握出来ずにいる内藤昇大の口は、壺に溜まっていた濁った雨水に塞がれた。髪にも服にも灰色の汚水が降りかかった。あたしはすかさず内藤昇大にタックルをし、どうにか屋外へ押し出すと、すぐに玄関を閉めた。田舎の古い家だから鍵がついておらず、力任せに戸を開けようとしてくる内藤昇大に対し、こちらも力任せに押さえつけるしかなかった。
男女の力の差で押し負けそうになったとき、志真名も加勢した。ふたりがかりで全力で押さえても、まだ油断すると戸が開けられてしまいそうだった。
そんなとき、あたしは手を滑らせ、戸から手を離してしまった。志真名ひとりじゃ無理だ、と悲観したあたし達の前に母が駆けつけてきて、戸を押さえてくれた。すぐにあたしも戻った。三人で押さえると、戸はもうびくともしなかった。内藤昇大は暫く諦めずに開けようとしたが、そのうちに大きな声で悪態をつき、戸を壊れそうなほど強く蹴り飛ばして、其きり静かになった。そうっと玄関から外を窺うと、もう誰もいなかった。
志真名もあたしも、達成感と脱力感のままに朝御飯を食べ、これからのことについて話し合った。
ねえ志真名、本当に大学辞めちゃうの?
うん。もう行けないし、其に、なんとなくで行ってたから。奨学金は払わないとだけど。
志真名ちゃん、就職するの? 大学中退で雇ってくれるところあるかな。
母が心配顔で訊くと、志真名は母に、
私、この家に住ませてもらっていい? 電気代とか年金とか奨学金は、バイトして払うから。
と言う。
私は良いけど、お祖母ちゃんの許可も取ってね。あとこれから手続きも色々あるし、すぐって訳にはいかないと思う。
母がそう言うので、食後に祖母に訊いてみる。すると祖母は快諾し、電気代は気にしなくて良いとまで言ってくれる。
ついでにあんたも住めば、とお祖母ちゃんはあたしに言うが、遠慮しておく。あたしは別に問題はないし、大学も行きたくて行っているし、其に恋川に彼氏だっているのだ。
あたしと志真名は違う。
翌々日の昼、船原さんはあたしと廊下ですれ違うなり、演劇は終わったかい、と囁いてきた。そして学食で船原さんを見つけて、ぐだぐだの幕引きだよ、とあたしは言い、粗筋を語った。
まだ問題も心配も山積みだし、今だってアパートで引っ越し屋さんを待っている志真名が襲われないか気が気でないくらい。まあ、何もしなかったよりよっぽどマシだけどさ。
あたしの感想で、船原さんは笑う。そりゃあ良い。君が少なくとも、余計なことしなきゃよかったと思ってしまっていないのなら、あとはどうでも成功だよ。お疲れさま。
労いの言葉と共に、あたしのナポリタンの上に船原の唐揚げがひとつ置かれる。どうも、とあたしは言い、
でも志真名、田舎で巧くやっていけるかなあ。あの子、病みとか関係なく変わってるから、もしも其で村八分とかされたらキツいだろうし。
と、正直な不安を吐露した。
心配だったら、君も行けば良い。私は止めないよ。
船原さんが意地悪く笑うので、
実家は帰る場所であって住み続ける場所じゃないよ。
とあたしも笑い返す。
其から、あたしの彼氏との近況の話になったり、共通でとっている講義のレポートの内容の話になったり、船原さんの親戚にバイトが学校にバレて停学になった子がいるって話になったり、最近変な法律が増えているって話になったりしているうちにあたしが講義を受けにいかなきゃいけない時間が近付き、食事を終わらせる。
返却棚に食器を返し、またねを言う前に、船原さんはあたしに訊く。
そう言えば、誕生日っていつだったっけ?
んー、来月の二十三日。何、祝ってくれるの?
出来ることなら。何か欲しいものは?
安定した高収入。
其は自分で手に入れて。
はいはい。まあ何でもいいよ。船原さんがくれるなら何でも嬉しい。
おっけ、期待しないで待っててよ。船原さんはそう言って去っていった。
そこであたしは、双子だから志真名の誕生日でもあることに気が付いた。
志真名は何を欲しがるだろうか。まず思い付くのはCDだけれど、引っ越しに際してCDコンポ等の音楽系のものは粗方売ってしまうと言っていたから却下。そうなると、あとは自力では思い付けない。
仕方がないので、あたしは講義が終わってから、志真名に電話を掛ける。
あ、もしもし志真名? 業者さんもう来てる?
ううん、まだだよ。どうしたの。
ほら、来月誕生日じゃん。何か欲しいものあるかなって。安定した高収入以外でね。
ああ……、私の誕生日ってことはお姉ちゃんも誕生日だよね。
そうだよ。
じゃあ一緒に飲みに行こうよ。『焼天』……ほら、前に行った焼鳥屋さん。
あ、いいね。ケーキとか予約出来るかな。
焼き鳥屋さんの匂いがするケーキかあ……ううん……。
じゃあまあ、高い酒とか飲んじゃう感じで?
そんな感じで良いんじゃない? あ、ついでに彼氏さん紹介してよ。
えー。まあ良いけど。だったら奢らせよっかな。誕生日ってことで。
其は悪い気がするけど……まあその辺はあとで決めよ。
うん。取り敢えず来月の二十三日ね。
わかった。そろそろ業者さん来るから切るね。
はーい。
通話終了。
あたしは駅に向かう。
駅で待たせていた彼氏に軽く謝って、其からショッピングモールとかコンビニエンスストアとかに寄って歩き回って、十五時になったので喫茶店で大きめのパフェを分けて、十六時に駅でまたねを言って、そのままベンチで座っていると、バッグとトランクを持った志真名がやってきた。
志真名はバッグのなかからCDを一枚取り出して、あたしに渡した。いつだったか志真名のアパートで聴いた、何かのCMソングのシングル盤。あれからときおり脳内でリピートしていたので、CDを譲ってくれるようにお願いしていたのだ。
ありがと、志真名。大事に聴く。
いやいや、もう私には必要ないって言うか、必要なくしないといけないから。
そう言って微笑む志真名を見て、成長しようとしているんだ、と感じる。
あたしも自分についてもっと見つめ直すべきだろうか?
改札越しに志真名へ手を振りながらそんなことを考えるが、家に帰る頃には、別にいいか、と思う。
成長なんて自分の速度で良いのだ。伸びしろもエネルギーの量も人によって違う。背伸びしようとして無理ばかりしていると、そのうち疲れ果ててしまう。枯渇してしまう。そういうときに精神を安定させてくれたり、気力をチャージさせてくれたりする人が傍にいるとは限らない……とは思いつつ、其でも傍じゃなくても列車で実家に帰ればどうにかしてくれそうだよなと楽観視している自分がどこかにいて、そんな甘えた自分を直すべきかどうか迷う。
だってほら、他力本願とかは良くないけれど、自分が死ぬくらいなら周囲に迷惑かけまくったほうがまだ取り返しがつくでしょう?
なんて思考も甘えなのかも知れないが、今のところは其を正すつもりはない。そんなどうでもいいことより、今はCDでもかけながら寝ていたい。
細やかなボリュームで流れ出すイントロを聴きながら、あたしは寂しさのないベッドの上に倒れ込む。
取り敢えず今日のところは、これで充分。
了