無駄な時間について考えた。
数年寝かせたままにしていたこのマガジンを思いつきで復活させて、何本かのエントリーを書いてみた。すると、予想以上に各方面からびっくりするほどの微妙な反応を頂いた。
友人からも「何あの意味わかんない文章?」という激励の言葉を頂いたり、SNSで新着のお知らせをすると必ず薄めの反応を頂いたりと、改めて自分のプロップスの低さと考える対象のニッチさを思い知る結果となった。
さてもその結果を受けて落ち込んだかと言えばそれは全くなく、まさに「後悔しても反省はしない」という私の人生訓の通り、相も変わらず日々暮らしている。そしてその日々の合間にも、相変わらず私は考える事を辞めない。なぜなら、考える事をやめようと思ってもまた気がつくと考えてしまっているからだ。
この「考えた」というマガジンは、私が日常の中で「ん?これなんだ?」と思った事をただつらつらと書き続けているだけの何の教訓もない、偏屈な私見の垂れ流しである。「時間の無駄」というものがあったとしたならば、ここを読むという事はその最たるものである。しかし逆説的に言えば「世の中には無駄な事などない」という名言の通り「あー読むだけ無駄な文章もあるのだな」と知った事は、今後の人生において決して無駄な事ではないのだ。
無駄。
あぁ、なんという自己矛盾を孕んだ命題なのだろう。
そもそもこのインターネットの気が遠くなるほどの広大な大海原の中でこの文章に出会って読んで下さっている方は、まさに歩いていたら後ろから自転車に突っ込まれた様な、言わば貰い事故の様なものである。
「だとしたら歩かなければいいじゃないか」という正論は、そこには通用しない。歩かないと目的地には辿り着けない様に、ネットの海を泳がなければ有用な情報には出会えないのだ。
ここにたどり着いた方にはせめてこのマガジンを通じて「人生には間違いなく全く役に立たない時間というものがあるのだな」という学びを得て頂きたいと思う。それかもしくは今すぐブラウザを閉じて、今まで理由をつけて回避し続けていた今すぐやるべき事に向き合って頂きたい。この文章を読んでいる時間があるならば絶対にやるべき事柄に時間を割くべきだと私は断言出来る。何故なら、私も別件の締め切りを回避し続けて大ごとになりかけているからだ。
さて、寝る時間を割いてこの文章を書いた事の無駄に後悔はしても反省はせず、明日の朝も眠い目をこすってパフォーマンス低めの一日を過ごす事とする。