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認識を広げる:その1 子どもの遊びやフィクションを楽しむ

 前回、「すでに自分であるところの自分」をあるがままに生きるということと、周りの人々(社会)と関わるということのバランスについて、木村敏の「あいだ理論」を援用して考えてみました。音楽の独奏、そして合奏を喩えとして、今その瞬間に音という形で自分を出していく動き(独奏のときはノエシス、合奏のときはメタノエシス)と、どのような音をどのようなタイミングで出すのかということを意識している働き(ノエマ)とが、バランスと保ちながら音楽が生成されていくのと同じように、あるがままに自分を生きるということと周りの人々(社会)と関わるということを同時に成立させるということを目指せばよいのではないか、そんなふうに考えられると思うのです。

 ただ、それはそれなりに難しいことで、人生経験を積みながら習熟していくものなのだとも思います。何が難しいかと言えば、目の前のことに集中しながら他のことまで目を行き届かせることができるかというところでしょう。「木を見て森を見ず」ということわざがありますが、細部に意識を向けていても大局観を見失ってはいけないということは、古人も大事なことだと考えていたのだと思います。でも、言うは易し、行うは難しで、車のGPSでもGoogleマップでも、拡大(詳細)画面と縮小(広域)とを同時に見ることができないように(できる機能があるものもあるかもしれませんが)、たいていはどちらか一方になりがちなんじゃないかと思います。

 メタ認知ということばがありますが、ものごとに集中して取り組んでいるときの認知に対して、それを鳥の目のように俯瞰している認知のことを指します。メタ認知が機能していれば、たとえば道を何回か曲がってもおおよその方角がわかっているとか、自分の持ち時間があまりないから細かいことは省略しようとか、さっきあのように言ったから今このように言うと整合性が取れないなとか、いろいろな局面において、全体と細部の兼ね合いを取ることができるわけです。逆に言うと、メタ認知が弱いと、方角がわからなくなるとか、時間の配分が悪いとか、発言が矛盾してしまっても気づかないといった問題が生じやすくなります。

 広がりのある認識力。あるがままの自分を活かすということと、周りに適応するということのバランスをとるために、認識力を広げていく必要があるのではないか。そのような問題意識から、まずは広がりのある認識力とはどのようなことなのか、何回かに分けて、いろいろな例をあげて考えていこうと思います。

 今回は、まず手始めに、子どもの遊びについてちょっとだけ考えてみたいと思います。就学前ぐらいの小さな子どもは、「ごっこ遊び」をよく行います。これは積木なら積木を組み立てて何かに見立てて遊ぶもので、例えば積木を車や電車に見立てて、ブーブーと効果音をつけ加えながら動かして遊んでいる姿を思い浮かべることができると思います。このとき、子どもの頭の中では走っている車や電車のイメージが活動していることでしょう。ただ、同時に、それが積木であることも認識しているはずです。積木に過ぎないということはわかったうえで、車や電車のイメージを重ね合わせているわけです。だから、遊びの中で、積木どうし(それらは子どもの頭の中で車や電車であるわけですが)をバーンとぶつけて事故を演出したとして、それが空想上のことだから大丈夫だとわかっているからこそ、そのような遊びができるのだとも言えます。

 でも、空想する力が強すぎると問題が出てきます。たとえば、お化けなど空想上の怖いものについては、けっこう本気でそれが実在しているように感じて、怯えることがあったりしますね。それのとき、その子にとって、それがフィクションに過ぎないという認識を持つことができず、非常にリアルなものだと感じて、楽しめなくなってしまいます。このことは、大人になってからも同様で、映画などでたいへんな状況が描かれていても、それが映画の中のことで、作り物(フィクション)であるという認識があることで、ある意味安心しながらハラハラすることができるわけですが、作り物(フィクション)だという認識がないと、楽しむことができなくなってしまうということもありますね。とはいえ、映画の作り手は作り物(フィクション)であるという手がかりをなるべく消し去ろうとしているわけで、とりわけ、最近は映像や音響の技術が発展しているので、これは作り物(フィクション)なんだという認識がどこかに行ってしまいそうになることもあります。そのようにして作り出されたフィクションの世界が、いつまでも留まっていたいような桃源郷ならいいですが(〇〇ロスみたいに、現実に戻ってこれないという問題があるとはいえ)、逃げ出したいような悪夢だったりしたら、トラウマ的な経験になってしまいそうです。

 逆に、空想する力が弱いと、ごっこ遊びも映画も、これは積木に過ぎない、作り物(フィクション)に過ぎないということになり、それはそれでつまらないことになってしまいます。得てして大人は、子どものような生き生きとした空想力を失ってしまっていることも多いものですね。先ほど、広がりのある認識力は、経験を積むことで得られるんじゃないかと言いましたが、空想する力についていえば、歳を重ねることで得られるというよりは、むしろ、失わないように保つ必要があることなのかもしれません。

 広がりのある認識力について、続けて考えていこうと思っています。

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