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木村敏『あいだ』理論を援用する

 前回の記事のあと少し間が空きましたが、今回のテーマも前回の続きです。社会に適応するために迎合的になるあまり、誰でもよい誰かになってしまった「世人」であることを止め、「すでに自分であるところの自分」すなわち、本来的な自分を生きるという生き方について、前回書きました。そのような生き方を選択したとき、社会への適応を顧みず、周囲の状況や自分に向けられた期待などお構いなしの「アウトサイダー」以外の生き方はないのでしょうか? オーセンティック(本来的)な自分を生きるということと、周囲の人や社会に合わせるということを両立させることは無理なのでしょうか?

 オーセンティック(本来的)な自分、つまり「すでに自分であるところの自分」を生きるということは、他者の目に映る自分の姿を気にすることなく、今、その時の自分を十全に生きるということであり、以前、記事に書いたように森田正馬の「あるがまま」や「マインドフルネス」というあり方とも共通しています。過去の記憶や未来の願望などへのとらわれを排し、今の自分の体験に集中することが善きこととされます。でも、ここでいう「今」とは、どのくらいのスパンのことを言うのでしょう? 限りなく短い瞬間のことでしょうか? あるいは多少なりとも過去や未来を取り込んでいるのでしょうか? 取り込んでいるとしたら、それはどれくらい? 1秒くらい? 5秒くらい? あるいは前後1分くらいまでは「今」の自分なのでしょうか。あんまり短すぎると、刹那主義的で享楽主義的になってしまいそうな気がします。

 個と他者(社会)との関係、そして時間の関係について、厳密に考えはじめると、案外悩ましい問題であることに気づかされます。これに関して、精神科医で優れた精神病理学的な理論で知られる木村敏の『あいだ』がヒントを与えてくれます。少し難しい部分もありますが、ごく簡単に紹介しましょう。

 木村は、説明をわかりやすくするために、音楽の演奏を例にあげます。音楽を演奏している状態を分析的にとらえると、音楽を演奏する行為と、そのとき演奏している音楽に対する意識とを分けることができ、前者を音楽のノエシス面、後者をノエマ面と名づけます。ノエシス面は、行為としてその瞬間に音楽を産出している働きで、その人の生命活動の発露と言ってもよいでしょう。しかし、それだけでは音程やリズムなどを統制することができず、そのときどきで無秩序に音が鳴っているような具合になってしまいます。音楽としてまとまりのあるものにするために、ノエマ面によって、すでに演奏された音楽とこれから演奏する音楽を意識し続ける必要があります。つまり、生命の発露であるノエシスという働きは、ノエマという意識活動(そこには演奏中に意識できる範囲の過去と未来の時間的な認識が含まれます)と一緒になることで、はじめて適切に機能すると言えます。そのバランスが大切で、前者の働きが強すぎればエネルギッシュだけどバラバラでゴチャゴチャな演奏になってしまいますし、後者の働きが強すぎれば、きちんとしているけれど機械のようで、生き生きとした生命力を感じられない演奏になってしまうでしょう。

 音楽の例えは、合奏という複数の人が関わっている状況を考えることで、さらに複雑な関係についても考えることができます。独奏ではなく、複数の人が集まって合奏するときも、個々の演奏者の中では上記のようにノエシス面とノエマ面が協調して働いていますが、それだけではなく、互いが奏でる音楽が一つにまとまり、あたかも一つの主体が奏でているかのような具合に産出されていくことになります。個々の主体が合わさった高次の主体の働きとして、木村はそれをメタノエシスと呼びます。メタというのは、高次のとか超越したという意味の接頭語ですが、このあたりのことはイメージするのが難しいかもしれません。でも、日本人はよくその場の「空気」を大事にすると言いますね。空気を大事にするというときの「空気」は、文字通りの意味ではなく、その場にいる人たちが作り出しているコミュニケーションの流れのようなものです。それは、その場にいる人たちが、それぞれの程度や仕方で関わることで作り出されたもので、それを意識しながら、その流れにほどよく関わることで、自分を見失うことなく、なおかつ、自分自身の生命の発露(それはその場にいる人たちによって合作のようなものとして動いています)を感じ続けることができるというわけです。クラシック音楽であれジャズであれ、ロックやポップスでも、すばらしい演奏はこの絶妙のバランスの中で生み出されていると言えるでしょう。ライブでは、奏者だけでなくオーディエンスの存在も、その流れを生み出すことに一役買っているということになります。

 木村がひも解いて見せたこの説明(あいだ理論)によって、オーセンティックな自分を生きるということと、周囲の人や社会と強調するということの両義的な関係を説明することができるのではないかと思います。音楽の初心者が、音を出すのに精いっぱいで、他の演奏者の演奏を聴くことができず素っ頓狂な音を出してしまうとか、他の演奏者の演奏(あるいはオーディエンスの存在)に圧倒されて自分の音をうまく出せなかったりというように、いろいろな場合があると思います。熟達した演奏者は演奏の技術だけでなく音楽の理論なども含めて、その場にいる演奏者の音にもよく耳を澄ませ、瞬時に反応して音楽を作り出すことができます。

 それと同じことが、オーセンティックな自分を生きるということと、他の人たちとの関わりを活かすということを両立させることにも適用できるんじゃないかと思いますが、いかがでしょう? そしてまた、その境地はまた、西田幾多郎のいう主観と客観が消え去り、合一したところのものなんじゃないかと思うのですが、そのあたりについてはもう少していねいに見ていこうと思っています。

 

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