実写版リトルマーメイド雑感
まず最初に言っておくとわたしは吹替で観ました。
なぜかと言うとこの映画において期待できる!と思った要素が海宝直人さんだけだったから。いつ使うんだよ海宝直人を〜ッ!!てずっとモヤモヤしてたし、かといってアラジンに使われていたら怒り狂っていたと思う。
そんなわけでエリックのためだけに吹替で観ました。
けしてわたしがパークでエリックの夢女やってるからじゃないんだからね!
箇条書き
◎よかった!
・海宝直人ォ〜〜〜ッ!!!!!!!
・エリックに自我がある(後述します)
・アリエルの女優さんがめちゃかわいい
・ドレスかわいい〜!履かせてもらった編み上げ靴を脱ぎ捨てて裸足で歩き回るのもかわいい
・お姉さまたちの掘り下げがなくてよかった(後述します)
・「王子様」じゃなくて、「エリック」というひとりのひとを好きになれるような誘導がされてた(アリエルも、観客も)
・アンダーザシー、アニメーションらしい動きがふんだんに盛り込まれてる!
・マックスかわいい!難破シーンでマックスを助けてあげるアリエル、いいね
・お忍びデート(?)で広場でもみくちゃになってみんなで歌って踊ってって、流行りなのかもだけど良かった!(ラプンツェルでもやったよね)
・エリックにも『アリエル』を好きになる理由や過程がちゃんと用意されてる
・「おそろいねわたしたち」も流行ってるの?いいですよ人間は他人に自分と同じ要素を見出したとき初めて好意を持ち始めるからね
・アースラ様、最高ですね
×うーん?
・セバスチャン、カニじゃん
・「これほしい?20個もあるの」で見せてくれるのは宝石がよかったな(「アリエルには人間のものの価値が分からないので高価なものとか関係なく「あげるわ」と言えてしまう)(宝物の中でも「数がある」からあげてしまえるくらい価値が低くて、逆にひとつしかないものは彼女はくれない)
・スカットル、もうちょっと……うーん……某ドリーすぎでは?
・セバスチャンがカリブ海から来た陽気でイケてるカニだからアンダーザシーがすてきなラテンのリズムなのに、地上もラテン風土なのは「人間の世界にはこんな楽しいリズムはない」が通用しないのでは?
・全体的に歌詞を変えても良かった気もする。
・エリックに……自我があるな……
細かく
ぶっちゃけ、映画としては良かったと思う。アニメーションの「リトル・マーメイド」の実写版かと言われたらそうじゃないけど。
アンデルセンの「人魚姫」が悲劇だからハッピーエンドにしたい!がそもそもあの映画だけど、当時とは時代が変わって、ハッピーエンド自体の解釈がかなり多様性を持ってきてる。
「人魚には涙がない」の一文からスタートして、最後に「お父さま、愛してる」「認めてくれてありがとう」でアリエルが泣くのは、父と海の世界(人魚であることのアイデンティティ)の喪失で、ほんとうの意味では彼女から人魚の特権を奪ったのはトリトンなのだなあ。
私はここにいる、とトリトンは言うけれど、待っている、ではないし、アリエルを自分の国から追放している。トリトンは父権主義の権化で、「子どもなのだから父親である私に従いなさい」「あなたには正しい判断ができない」という押し付けをしてくるから、まー古いこと、と思うけど、結局アリエルを認めたように見せてはいても、彼の治める古い主義の王国から追放してるんだよね。
パートオブユアワールドの旧歌詞だとアリエルは「世界の一部になりたい」と歌っていて、新歌詞でも「行きたい人間の世界へ」、つまり父親の下で庇護されつつも、自立したい、人魚も、娘も、ひとりの人格としては認められてない。世界は父親(男性)のもので、娘はその所有物にすぎない。
『人魚』で『娘』のアリエルが父親の庇護からぬけだして『ひとりの大人』になる物語なわけだ。
これはお姉さまたちの掘り下げの話についてでもあるんだけど、お姉さまたちは『人魚で娘』のままなんだよね。それぞれに外見的な違いはあるけど、個性はない。アニメーションでは外見の違いすらほぼなかった。まあそれはいいんだよ。アリエルが行方不明になっても「お姉さまたちと喋りたくない年頃(思春期)なのよね」くらいでめっちゃ軽い。でもお姉さまたちはそれでいい。トリトンが「娘がいなくなるのは寂しい」と言うけど、お姉さまたちは離れて暮らしてはいても本質的にはトリトンのもののままだから。
人間になったアリエル、慣れなくて歩きにくいからというのもあるけど、靴をすぐ脱ぎ捨てている。誰かに歩かされる道(ヒレ)を嫌がっていた彼女が履かされた靴を脱いで抵抗するのは分かるし、お忍びデートで自分で選んだ靴(サンダル)に履きかえてダンスするの、ちゃんとパートオブユアワールドの歌詞をなぞっていて感動する。靴を買い与えてくれるのがエリックってところは仕方がないとはいえ、どうしても削除できないトリトンの父権主義からの解放として、結局つぎの男(エリック)に属するだけなんだよな。
エリックに自我がある!はこのへんとのリンクもあるのかなーと思いつつ。
アニメのエリックって、裕福な暮らしをしてて心優しい優男でたまの休みはかわいい飼い犬と戯れて……みたいな、言っちゃなんだけどシンデレラストーリーで結ばれるべき王子様の要素ぜんぶ詰め込みましたぜドヤドヤお買い得!みたいなキャラクタだと思っていて。アニメの尺もあるから別にそれで良かった、なぜって「リトルマーメイド」であって「プリンスエリック」じゃないから。
今回の映画ではエリックを作り込んであって、アリエルが人間になる(=独り立ちする)ためだけの舞台装置じゃない。真実の愛を得ることって実は二の次で、ひとりとして認められて自由になりたい、自我を持って独自の思想と判断で行動したい、手段ってなにがある?ってなったときに、もちろん未知のものへの興味関心もありつつ、「そうだ人間になりたい」が出てくるんだと思うんだよな。
あまりにもアリエルにとって「人間に母を殺された」が軽すぎる。姉たちも、母を殺されたことよりもいま沈没船によって珊瑚礁や海が壊されてることを重要視していて、こう……人魚という種の存続というか、そっちに重きを置いているんだな。人魚と人間の違いをめちゃくちゃ感じる。石鹸食べちゃうとかお花食べちゃう!みたいなアリエルの行動よりずっと、あ、こいつら幻想の住人でこっちの常識通じねえんだわ、ってなる。そりゃ自我のあるアリエル、しんどいでしょうよ。
アースラもその類で、『自我のある女』が邪魔なもんで追放せざるをえないんだ。アースラはトリトンに従わない、しかも魔法の力を持ってる。めんどい幽閉しとこってなる。アースラ様はアリエルのもうひとつの未来だよね。じゃあ、ふたりはなにが違うんだろう、性格? そうじゃない。アリエルは王子様(=人間)と結婚して、ちがう血族関係に属することになる。異種婚姻譚はたいてい破綻するものだけど、これはディズニーのハッピーエンドなので。
エリックってどんなやつでも良かったんだよね。王子様じゃなくて、たとえば王子の船の乗組員の少年、とかでも良かったわけ。なんならその方がアリエルと精神年齢近くて良かった可能性すらある。船乗りの下働きで、いつも荒くれ者たちに小僧扱いされて、でもいつか自分の船を持って冒険に行くんだ!みたいな少年。それはそれで観たいが、まったく違う映画になる。
結ばれるのがエリックでなければならない必然性ってアリエルのほうにはない。恋とか運命とかは必然ではないので。エリックは人間だから運命を大事にするし命を救われたという恩義に報いようとする。それはそれとして一目惚れのかわいい女の子のことも好き。恩ある人、運命の人、ちょっとかわった、おしゃべりできない女の子。彼女を知って「運命ではないもの」を選ぼうとするエリックに協力的なのがグリムズビーなんだけど、それは運命なんていう地に足のついてないものじゃなくて、手に届くところにあって、抱きしめてキスできる女の子のかけがえなさを知っていて、あとは、"本当は王家の生まれじゃな"くて、どこかに行ってしまいそうなエリックを引き止めたい、という意図もあるのかなと思う。
もっともエリックの「外の世界を知りたい」という欲求は、いまの自分が満たされていないからではなくて、外で得たものを家に持ち帰りたい、なので、アリエルとは根本的に違う。ここではないどこかに行きたいわけじゃなくて、ここで生きていきたいから、ここではないどこかのことを知っておきたい。よそが不幸せとも思ってないし、ここだけが幸せとも思わないけど、狭く閉じた世界と自分の行く末を心配している、かな。
拾い子なのか貰い子なのか知らんけど、エリックはこの土地に根差した人間になろうとしてる。あきらかにエリックは人種が違って、あの国の人間じゃないよね。女王への愛情や住人たちへの愛着かもしれない。アリエルはエリックにしか帰着できないけど、エリックは土地とか、国に帰着できる。これはめちゃくちゃ大きい。異種婚姻譚のながれを正統に汲んでいて、王子の死や裏切りが人魚からの祝福を失わせる。別の女と結婚するとか、原作における「人魚姫が王子の胸をナイフでひとさし」とかそういうもの。
このへんはそのまま踏襲するんだー、と思って観た。
もとのエリックが薄すぎるとはいえキャラクタ盛りすぎじゃない?!という気持ちと、肉付けされたことでプリンス・エリックの物語にもなった感動がある。
エリックの葛藤はエリックが人間らしく肉付けされた結果なので当然だけど、名前も知らないきみへの恋のニュアンスの歌詞はなんか違うな……とわたしは思った。
「まだ見ぬ世界」(Wild Uncharted Waters)、エリック版のパートオブユアワールドなわけだけど、「セイレンの歌声」って歌ってるんだね。(訳詞にはセイレンの文言はなかった)
健常ではない、嵐に呑まれて幻想をみて取り憑かれている感覚が無自覚でもあるんだろうか。「太陽の下のきみ」は「陽の光浴びながら」へのアンサーだと思うけど、そのわりにエリックはアリエルを海のものとして扱っている。海の一部というか、エリックにとっての「外の世界」の象徴として焦がれているだけなのかな。アリエルは「陸の世界のやさしい人(なら誰でもいい)」と歌っていて、エリックもまた「海の世界に導いてくれるきみ(海の魔物でもいい)」と歌っているので、彼らはまだ、恋を知らない---(何???)同じ国に生まれたミラクルロマンスがあるように別の国に生まれたミラクルロマンスもあるんだよ。
前述したけど、エリックは「持ち帰る」ために外を知りたがっていて、いまの場所から逃れたい、外に行かないと自分は自分でいられない、という焦燥はなんか……違うな……?? 冒険に憧れる部分もあるけど、エリックは地に足のついた人だなと思う。足あるし靴も履いてる。
ラストシーンでも「この国のためにできることはすべてしなさい」と女王が言うので、彼は国に帰着する存在で、それを周囲も本人も認めているんだと思うんだけどな。
これだけはクソデカボイスで言いますが、
海宝直人、歌が上手い!!!!!!!5億点!!
だからこそ歌詞にひっかかるところがあるのがうーん……ってなってるわけだが。アニメーションをそのまま実写版にするだけなら意味はないから要素を足したり細部を変えたりするのは必要なことで、文句を言うひとは絶対いるよね。わたしも実写版ア………のことは一生disると思う。塩梅が難しい。
わたしは「ゆきてかえりし物語」に人生を狂わされてるオタクなのでエリックにそういうニュアンスが足されて気が狂いそうです。歌上手いし。
「まだ見ぬ世界」にもリプライズがあったら、誰でもないきみと目指す世界→愛しい人と暮らす世界、みたいな心境の変化が歌われたんだろうか。ぶっちゃけリプライズしてほしいメロディではないのでパートオブユアワールドのデュエットをもっかいやったらいいんじゃないすかね。まだ見ぬ世界へのアンサーがあるとしたら「すでに知る世界」(足元にある幸せ)になると思うけど、パートオブユアワールド(アリエルの「まだ見ぬ世界」)にはセバスチャンがアンダーザシーでアンサーしてるから。
そう、エリックの「まだ見ぬ世界」にはアンサーがないんだ。だからって女王やほかのひとたちがアンサーソングを歌うかっていうと蛇足も蛇足、余計なお世話ですわ〜!!になるので、あの曲は宙ぶらりんなんだね。かくなるうえはエリック自身がアンサーをリプライズするしかないが、そこまでいいメロディでもない(disるな)しな……
総括╰(*´︶`*)╯♡
海宝直人はもう1曲くらい歌ってもいいと思います。(そこ?)
そもそもリトルマーメイドという物語の本筋が時代に即してないので、どこまで変えてどこまで変えないのかの塩梅がめちゃくちゃむずかしい映画だと思う。前述したけど、エリックを王子じゃなくするとか、変えようと思えばいくらでも変えられるし、それやったら「リトルマーメイドというタイトルでやる意味ある?」ってなっちゃう。
(個人的に舞台エヴァンゲリオンビヨンドがめちゃくちゃ良かったんですが、いろんな設定を踏襲しつつキャラクタを全部入れ替えて作品を作るとき、タイトルをそのまま持ってくるのって大変だし、『ビヨンド』ってついてなかったら反発したかもしれない)
アリエルや女王や島の人々を有色人種でキャスティングしたことについては、うーん……配慮以外のなにものでもないと思うけど、そもそもこの物語自体が現代的ではないからそこだけ変えてもな?とは思った。アースラを王妹にしたのはせめてもの抵抗だろうか。(アニメじゃ姉だったよね?姉=年長者でも女であるだけで玉座につけない、これは彼女が邪悪であるからではない)
全体的に「リトルマーメイドをやりたい」を感じたので、わたしはいい映画だと思ったよ。期待せずに観に行った、というのも大きい。某ア………のときは、映画ファンの方々が「あれはディズニーではなくて監督の作品」と仰っていたのをみかけたけど、リトルマーメイドはそうは感じなかった。それでも「うーん」って思っちゃうのは、新訳に対するもやもやの気持ちだからまあしょうがない。『ライ麦畑でつかまえて』とか『星の王子さま』に感じてるもやもやとおんなじだから。
こんなに長くなると思わなかった。
ダ・ポンテ観にいきます。
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