骨折り女の台湾入院日記〜エピソード0〜
この台湾行きは、7月下旬から携わりはじめた産業遺産関係のお仕事のためだった。日本でのイベント開催に向けて、台湾の産業遺産事情をたくさん見てまわったり、関係者と顔合わせをしたり。観光らしい場所にはまるで目もくれない、変態的な行き先ばかりが並ぶ7泊8日の旅程だった。ちなみに、行き先が変態的だったことと事故には、なんの因果関係もない。
ところで、わが家は関空からだいぶと遠い。始発電車で向かっても、出国手続きの締め切り時間までに余裕がないか、なんなら間に合わない。途中でお腹が痛くなっても、トイレに駆け込むことすら許されないのは避けたい。
10代の頃、関東の親戚宅からひとりで帰る途中の山手線内でお腹が痛くなり、小さく震えながら慌てて降りた品川駅でお金を払わなければならないトイレに遭遇。痛む腹と有料のトイレが存在する都会のおそろしさに涙を浮かべながらチャリンからのポチャンでピンチを凌いだ代償に、飛行機に乗り遅れた思い出が昨日のことのようによみがえる。
しかし、わたしはもう大人へとすっかり成長している。
若かりしころの失敗をお金で乗り越えることにした。関空の対岸、りんくうタウン駅前のホテルに前泊したのだ。
台湾での事故の話を書くのに、なんで出発前から話がはじまるねん!
と、お思いの方もいるかもしれない。
いま思えば、ここからはじまっていたような気がしてならないのだ。
さて、りんくうタウン駅前にある関西エアポートワシントンホテルをご存じだろうか。大きなデッキで駅と直結していて、向かいには立派な病院がある。この病院、「りんくう総合医療センター」は泉州地域の中核病院であり、わたしはここに、ひとかたならぬ思い出がある。
はねられたのは人生で3度目だと言った。
最初のはねられ体験は16歳の時。
こちらは原付バイク、相手は車。バイト先のショッピングセンター駐車場で譲りあいになった。車のドライバーが行けとハンドサインを出すので前を横切ったら、通り過ぎきらないうちに発進してバイクの後輪と接触。衝撃で飛ばされた身体は、なんとも運のないことに顔から車止めにダイブした。
カドに打ちつけた顎は左右と先端3ヶ所の骨が折れ、皮膚がざっくり裂けて大量出血。通りすがりのオバサマが(ひえぇあぁぁぁ!!)と手で口を覆って絶句しているのを、アドレナリンドバドバのわたしが冷静に見ているという、けったいな事故だった。
あまりオープンにしていないけど、わたしは泉州の出身である。
そう、この怪我で入院・手術したのがりんくう総合医療センターだった。折れた骨を留める金属を顔に入れる手術、半年後に取り除く手術、そして顎関節のリハビリをしたのだが、このリハビリが痛いのなんのって。病院送りになったことがあるくらい生理痛がひどい体質だけど、リハビリを超える痛みにまだ出合っていない。ぎゃーぎゃー泣きわめきながら耐えた痛みの記憶が、ドライバーへの静かな憤りが、この病院にはつまっている。
25年前のあの日々を懐かしく思って、台湾出発当日、7月29日の朝5時半過ぎに撮った写真がこちら。
ホテルから出発する関空行きリムジンバス乗り場が病院の真ん前だった。
「思い出したから呼ばれた」なんてことを言うつもりはないけど、なんというか、自分でフラグを立ててしまった感がすごい。リムジンバスの中でも、「そういえば入院中に和歌山でヒ素入りカレー事件が起きて大騒ぎになってたなー」と思い出し、あれが何月の出来事だったのか調べたりしていた。7月だった。
と、フラグをきっちり回収してしまった感をおさらいしたが、台湾へ向かっているわたしは、そんなことにまだこれっぽっちも気付いていない。大きめのスーツケースを転がすのも久しぶりで嬉しいうえに、10年前に航空券を取る寸前までいって諸事情で中止した念願の台湾行き。
桃園空港に到着した時の写真にも、なんとなくその喜びが漏れ出している感じがする。
2日前に台湾入りしている仕事仲間と台中駅前で合流することになっていたので、桃園空港からの直行バスに乗る。チケット売り場で行き先を告げるため、事前に調べておいた「台中」の中国語読み「タイジョン」をできるだけスマートに決められるよう、到着ロビーからバス乗り場に向かって歩きながら小声で何度も練習した。
タイジョン。タイジョォン。
いや、アクセントも大事やけど、まずは挨拶をせねば。
ニーハオ!タイジョン!
カンペキ。
チケット売り場はギリギリなんとかスマートにやってのけたが
「どこや!?あんさんはどこで降りますのや!?え!?どこ!」
質問しておきながら答えを聞くつもりがなさそうな、寸分の隙も与えない中国語マシンガンをこれでもか!とぶっ放す2人の乗務員には「エヘヘ」とフニャフニャするしかなかった。
中国語のヒアリング難易度、ケタ違いすぎ。
さらに車内での案内はアナウンスのみというハードモード。停まった停留所の数を必死で数えていたけど、乗車時に申告がなかったところには停まらないのだと気付いた時には、現在地を見失っているどころか、もう終点だった。台中駅まで歩ける距離だったのが幸い。
無事に仕事仲間と落ち合ってから3日間は、終日チャーターしたタクシーでの移動。台湾の街を灼熱に染めあげるイケナイ太陽がすっかり身を潜めるまで、九州より少し大きい全土を西へ東へと大移動。台中市から嘉義市へと南下し、30日の夜には高雄市に到達した。
そして運命の日。
高雄での2日目、つまり台湾到着から3日目。
現地の方とのコミュニケーションには、Google翻訳アプリが大活躍した。翻訳されることを念頭に、日本語の言いまわしにも工夫が必要。3日目ともなると、そのあたりのコツも掴みはじめていた。このスキルが、のちに身を助けることになる。
しかし今はまだ、3日目の旅程を終えて心が満腹状態のわたしである。宿から近い繁華街で鍋をつつき、腹をも満たしていた。
これが最後の晩餐だった。
この後のできごとが衝撃的すぎて味の記憶もおぼろげになっているけど、美味しかったことは間違いない。晩餐を終え、通り向かいのスーパーへ買い物に向かう足が、信号のない横断歩道へと差しかかる。
7月31日 21時50分すぎ。
はねられるまで、あと数分。
横断歩道を渡りはじめたそのころ
1台のバイクが刻一刻と近づいていた。
次回、頭の中のチンピラ
(8月28日夜 更新予定)
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