ただいま日本〜OMOTENASHIの底力〜(台湾入院日記)
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豆粒のようだった海上をゆく船が、もう、すぐそこにあった。
いよいよだ。いよいよ帰ってきたのだと、窓の外を西川きよし師匠のごとき目で凝視する。
視界に滑走路の端を捉えたと思うと、すぐに「どすん」と衝撃があって身体が後ろに引っ張られた。エンジンを逆噴射する音が聞こえる。
帰ってきた。
帰ってこられた。
帰ってきてしまった。
11日前、意気揚々とピーチ航空便に乗り込んだ第2ターミナルを、エバー航空便はするする〜っとかわし、第1ターミナルへと進む。海をまたぐ誘導路を渡ると、ひときわ大きな銀色の屋根が太陽の光を反射していた。
雨の高雄とはまるで正反対の、清々しい空だった。
駐機場ではボーディングブリッジが、機体の到着を今か今かと待ちわびている。側面には、わたしもメインバンクとして使っている緑色の銀行のロゴ。目に入るものすべてが、「ここは、日本やでー!」と言っているのに、ここまで来てもなお、実感が湧かないままだった。
あぁ、そうか。
その時々で座るものが変わるだけで、身体をほとんど動かすことなくここまで来たからだ。目に映る景色だけが動くそれは、まるでノンストップで流れるフィルム。自分の身に起きていることだとは、ちっとも感じられなかった。
薄闇の中にあった街を、ラウンジを出ると朝になっていた高雄空港を、雨雫の向こうで手を振っていただろう整備士たちを、変な宗教が出す本の表紙のような上空を、台風の面影などまったく感じないほど晴れ上がった関西の空を。
次々と流れてきては去っていった景色を思い返しているうちに、飛行機はもう停まりそうな速度で最後の位置調整をしていた。
銀行のロゴをつけたボーディングブリッジの姿が、飛行機の窓枠におさまる。その時視界に入った光景に、「ここは日本なのだ」という実感が一瞬のうちに身体中を駆け巡った。嗚咽するほど涙が込み上げる。
先端でブリッジ操作をするスタッフの隣。ちょうど目線の正面になった場所に、控えめながらも姿勢を正して立つ、見慣れた制服の女性が見えた。その手はしっかりと車椅子のハンドルを握って。
外国で骨を折って、這々の体で台湾から飛んできたマヌケなわたしを家に帰すために、あんなにも折り目正しく待ってくれている。
日本だ、ここは間違いなく日本なのだ。
1秒たりとも不安にさせない、日本人のもてなしの底力。心強くて、優しさにあふれていて、もうたまらなかった。涙を抑えられない。はたから見れば、飛行機が無事に着陸して感極まっている、めちゃくちゃ心配性の女だと思われただろう。
泣いていることが、ボーディングブリッジにいる人たちにバレてしまいそうなほどの距離感。にこやかに微笑んで待ってくれている女性を直視することができなかった。
うつむきがちに視線から逃げていると、ブリッジがドアに向けて動き出し、ようやく思いきり涙を拭くことができた。
ビジネスクラスの他の乗客が降りたタイミングで、日本クルーが松葉杖を差し出してくれる。背後に取り付けられたカーテンの向こうでは、エコノミークラスの乗客に少し待ってもらえるようアナウンスをしているクルーが見えた。
わ、早く出なくちゃ。
手荷物のリュックはクルーが持ってくれていたので、わたしは松葉杖を突くことに集中する。おぼつかないながらも機体とブリッジの数センチの段差をつつがなく越えると、間髪入れずに車椅子を背後に回してくれた。
松葉杖で身体の向きを変えることなく、そのまま腰を下ろすことができる安心感。これは怪我をして初めて理解したことだった。見るからに若い地上クルーの女性は、この細やかな気遣いを、いつ、どこで学んだのだろう。
「段差を超えるので少し揺れますよ」、「ここは傾斜があるので逆向きにしますね」と逐一、丁寧すぎるほどの声かけがある。
翻訳アプリがなくても、かけられる声のなにもかもを理解できる喜びを感じていた。翻訳アプリには本当に助けられたし、あれがなければ入院生活はままならなかっただろう。心の底から感謝しているけど、やっぱりどこかで気を張っていたのだ。
母国語の安心感って、すごいね。
なぜこんな足になったのか、車椅子を押してもらいながら話していると入国審査場までやってきた。審査官から、外国人が出す必要のある入国カードを提出するよう求められた。
「あ、日本人です」
わたしと若い地上クルーの声がハモる。
「あぁ」と小さくうなずく審査官に手渡した赤いパスポートに、無事に帰国のスタンプが押された。
「帰国」
押されたスタンプを眺めて、声に出さずに呟いた。
ターンテーブルまで到達し、スーツケースをピックアップしてもらう。「あ…!」片手で車椅子を押すのは難儀なことだと気づいて小さく狼狽える地上クルー。
「それは座ってるだけのわたしが!転がします!」
「そうしましょう!」
両手が空いているわたしがスーツケースに手を添えて、それごと押してもらう。ささやかな連携プレー感。あうんの呼吸、的なコミュニケーションが小気味よくできる。
税関で申告書を提出し、到着ロビーに出た。ここではタクシー会社のドライバーさんが出迎えてくれると保険会社から聞いていた。北ウイングにはそれらしき姿が見当たらなかったが、南ウイングで合流することができた。
スーツケースをドライバーのSさんにバトンタッチして、車まで地上クルーの女性に連れていってもらう。横断歩道の先、中洲になっているタクシー乗り場の端に、またも黒いワンボックスカーが停まっていた。
行く先々に用意される、とにかくゆとりのある空間。今のわたしは、折れたかかとを地面につけるのが心許なく、足を伸ばしぎみに組めるスペースがありがたかった。
朝と同じ要領で乗り込み、救世主のように見えた地上クルーに別れを告げる。なんてことない会話だったけど、日本語を噛み締めるように発した10数分だった。
「では出発します」
Sさんはそう静かに宣言し、車を発進させた。
車のナビには、すでに私の自宅住所がセットされている様子だった。
空港連絡橋を渡り、阪神高速4号湾岸線へと合流する。ナビの画面は見えなかったが、わたし自身よく運転するルートなので、これから通るであろう道は予想がついた。このあと港大橋で5号湾岸線へスイッチして、尼崎末広ICで高速を降りるはずだ。
外はいろんな音で溢れているのだろうけど、車内は適度な遮音性があってとても静かだった。かすかな走行音に乗せて、今もなおフィルムは回り続けている。どんどん後ろへ流れていくだけで、目にみえる風景からはなんの感情も起こらなかった。
何度となく自分で運転をして走った道、見慣れた街路樹、いつも目印にしている分岐の青看板、ごくたまに買い物に行くスーパー…。情報だけが流れ込んできて、感情はなんの処理もしない。
凪。
心はゆらりとも動かない。
あれ?わたしは朝から何をしてるんだっけ?
ふと我に返った時、薄暗い自宅の玄関に松葉杖を支えにつっ立っていた。
「家に、いる…?」ただ座っていただけで、朝は台湾にあった身体が今は自宅にあることが、にわかに信じがたかった。
なるほど。心と身体は繋がっていると、折に触れて聞いてきたけれど、本当にそうなんだなと身をもって知る。意思に沿って身体が動くことで心が動くのならば、わたしの気持ちはまだ台湾にあったのかもしれない。
あまりにもやり残したことが多すぎた。
台湾に置いてきたかもしれない魂を思いながら部屋に入ると、ネコチャンが警戒の顔を見せながらも熱烈に出迎えてくれた。八角の匂いがしているのだろう。腕を嗅いでみたけど、人間には分からなかった。
今回の事故では、歩けなくなるという憂き目に遭ってしまったけど、失ったこと以上にたくさんのものを受け取ったように思う。想定外すぎるアプローチではあったものの、台湾に暮らす人々の温かさをこれ以上ないほど知ることができたし、世界には美しいことも溢れているのだと、たくさんの人から教えてもらうことができた。
かならずまた、旅に出よう。
自分の気持ちの赴くままに身体を動かして、見たいものを見て、聞きたいものに耳を澄ます。そういう旅を懲りずにしよう。そして出会った人に、もれなく親切にしよう。台湾の人々が、そうしてくれたように。
8月9日 日本時間13時過ぎ。
骨折り女、帰宅。
台湾で出合った、わたしをはねたオバハン以外のすべての人と出来事に、そして日本で手厚いサポートをしてくれた方々に感謝を込めて。
骨折り女の台湾入院日記
—完—
めでたし、めでたし。
とはいかないのが、このはねられがち人生。
次回からは不定期で、台湾入院日記—日本編— スタート
なんでまた入院せなあかんのや!
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