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長野の四角い湖の国
子供の頃、スキーをするために何度か長野の志賀高原に行きました。
スキーを滑り終わって愛知に帰る途中、長野道から中央道へ合流する岡谷JCTの直前、トンネルを抜けて少しだけの間に見られる湖があって、大きな湖というものは愛知にはなく珍しいので、それが車の窓から見えるかどうかが楽しみでした。
大人になって、ふと美ヶ原に行きたくなりました。一昨年くらいだったと思います。
美ヶ原も昔に親に連れて行ってもらったけど、美術館の事しか覚えてなかったので、道のりは完全に初見でした。
霧ヶ峰を通るルートで行きたかったので、諏訪ICで降りることにしました。
そうして志賀高原に行く時は長野道に分岐していた岡谷JCTを、私の記憶上では初めて曲がらずに通り過ぎて、諏訪湖SAで休憩しました。
その時私は初めてしっかり諏訪湖を眺めたんだと思います。
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鹿の国という映画を見ました。
私は諏訪信仰については勉強不足で素人ですし、そもそも他県民なので実際今を生きる諏訪の方々がどこまで信仰されているのか、どんな気持ちなのかはわかりません。
ただ、何もしなくても時は進み季節も巡る中で、大きな木とか巨大な石とか、湖の氷結に野生生物、農作物の育ち具合など、そういったモノやコトに神を見出して畏れたり祈る……その信仰のあり方が絶えず続いてきた事を私は尊いと思います。
それでも消えていったものはたくさんあって、中には心から残念に思うものもありました。
でも戦乱の拡大や社会のしくみの変化なんて、抗う事はきっと難しいです。そんな中で信仰の存続のために奔走してくださった方々には頭が下がる思いです。
映像の中では何度も種から芽吹くさまが表現されていました。
春に芽が出て夏に育ち冬に枯れるように、長い歴史の中で新たな信仰や考え方が生まれてそして失われていくのを、ミシャグジ(と呼ばれるなにか)は太古から木の上から見つめていたのでしょうか。
ミシャグジはきっと信仰が無くなっても、なんなら人類が滅亡してもどこかにいるような気がします。地球がドカーンと消えても宇宙に漂うスペースミシャグジになったりして……!?(ソソウ神は……謎なのでわからんです)
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600年前の神事の再現はとても興味深いもので、当時の人々の生活に思いを馳せることができました。
私が600年前の人々に心を寄せるように、600年後の人は私達の事を想ってくれるでしょうか。
今では大祝様も神使達もいなくなってしまったけど、彼らの足跡は今も信仰の中に生きていて、今年も春を待っているといいなぁと思います。