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「普段、言葉だと止まらないマシンガントークなのに。。。」考えだしたら言葉が急に出てこない。

言葉が出てこない。

いざ、書こうとすると頭の中にあった思想、経験、それを基に繋がれていく言葉が分散していく。書こうと思ったときに限って言葉たちは遊びに行きたいらしい。空気の読めない子たちだ。

黒いゲーミングチェアをリクライニングして、もたれかかったまま背伸びをする。こういう時はいつもどうしていたかな。無理やり言葉をかき集める。思想を見つめ直す。どんな経験をしたか思い出す。でも、言葉はみんな遊びに行ってしまう。集中力の問題なのか。いや、集中力は途切れないタイプだ。では、なんで分散するんだろう。

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,,,1つ思い当たることがあった。俺が今、本当に書きたいことじゃないとき、言葉が消えていくことがある。俺は極端なタイプだ。好き嫌いもハッキリしている。だからだろう。俺がフィルターを自身にかけてしまっている。「書いた方がいいんだろうな」そんな曖昧な考えでいるときは大抵みんないなくなる。呆れてしまっているのか。普段あれだけハッキリしている俺だからか。まるでいつもの魅力が無いと怒られている気分だ。自分で自分の"魅力"っていうのも気恥ずかしいが。これは高校の頃の友人に教えてもらった俺の魅力らしいから、有難く使わせてもらおう。

---日頃の自分を出す。うん。改めて考えると出せないものだ。考えずにリアルタイムの生々しさの中で時間を感じているから、それが自然さを出している。

---あぁ、だから言葉は逃げてしまうんだ。キレイに魅せようとすり減らす。整えようと必死に必要なものを捨てている。本来の自分と仮面を被った自分が気づかない内に生まれてしまっていた。素直に生きようと今は思えているのだけど、油断をしていると自分を守ろうとして、こうなってしまう。よくあることだけど。


仮面を被った自分がかき集めた言葉を、本来の自分が受け入れられるのか。表も裏も表裏一体。どちらも俺自身のことであって、受け入れようとしていない。いや、その準備から逃げていただけなのかもしれない。純粋で透明感のある水を通してキレイに見えるほどの透明感はない。それが気持ちのどこかで絶対に必要。無いと自分がそこにいてもいい存在なのか不安になる。そんな承認欲求もあったはずだ。

人間不信にもなると承認欲求は麻薬になる。だから、自分を綺麗に魅せようとしてしまう。それが感覚的にも、直感的にも本心とは合わなかったんだろう。言葉を語るのも、思想を語るのも本人次第ではある。その言葉は自分の今まで生きてきて経験してきたなかで取り込んできた全ての土台になるもの。そう簡単には変えることはできない。




今でも思い出す。横を歩く友人、同じ教室にいた同級生、他人。「その顔は本物なのか?」「それは適当な顔なのか?」本心がわからない。信じることができなかった。疑うことも心の中だけに留めていた。そうやって、まるでスニーキング系のゲームをしている感覚だった。この感覚がバレてはいけない。そんな生活をしてきたからか処世術だけは無駄に身についてしまった。今では人との関係に悩まないほどに。




自然体の素直な言葉。仮面を被って、客観的な視線を気にしたら、その言葉たちは逃げていく。でも、それは俺自身の柱でもある。ちゃんと仮面を外して、すくってあげないといけない。これは、人間不信の俺が自分で成さないといけないことなんだと思っている。これをもから逃げてしまうと、もう諦めることが癖づきそうだから。

---リアルタイムを書き残す。空白も埋めるような感覚で残していく。リアルタイムの生々しさは、強くホンネに繋がっていく。経験に"余っている"ことはない。ちゃんと自身に埋め込んで目を瞑った先で会話をすることで意味は生まれる。それは表での意味とは違った意味になる。そんなコーヒーに入れた砂糖が溶けるほど弱くない。むしろ、コーヒーとミルクが混ざりあったようなもの。言葉が分散したとき、また思い出すことになるけど、それが慣れと成長ってもんじゃないかな。

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