BOOK:歴史のなかの”ともぶち”
和歌山県立博物館の特別展として開催された「歴史のなかの”ともぶち” 鞆淵八幡と鞆淵荘」。そのカタログブックです。
「鞆淵」は、和歌山県紀の川市の山中にある集落です。
鞆淵八幡神社には国宝に指定されている神輿があります。
その神輿の名は「沃懸地螺鈿金銅装神輿」(いかけじらでんこんどうそうしんよ)といい、1228年に後堀河天皇の勅により京都の石清水八幡宮から贈られてきたもので、平安時代後期の最高傑作といわれている神輿です。
鞆淵八幡神社の祭神は、応神天皇、仲哀天皇、比売大神で、祭神をかたどった木彫りの像が納められています。が、1つ気になることがあります。
応神天皇は男性、仲哀天皇はその父親にあたる男性、比売大神は女性なのですが、木彫りの像を見てみると、応神天皇の像は男性、仲哀天皇の像は女性、比売大神の像は女性、となっています。男性であるはずの仲哀天皇の像が女性なのです。
整理しておくと、応神天皇の両親が仲哀天皇と神功皇后です。
仲哀天皇は、熊襲を討伐するために皇后とともに筑紫に赴いた際、巫女のような役割で神懸りした皇后から、「熊襲を攻めても意味はなく、それより海の向こうにある新羅に行けば戦わずして手に入れられる」という託宣を受けます。仲哀天皇は山に登って海を見ますが、そのような国は見えなかったので神託を信じなかったため、神の怒りに触れて筑紫で急死します。
その後神功皇后は朝鮮へ出兵しますが、当時、応神天皇を身篭っていたにもかからわず、お腹に石を巻いて冷やして出産を10ヶ月以上も遅らせたという、普通に考えると無理な設定の逸話を持つ人物でもあります。
追加のトピックとして、王朝交替説といものがあります。天皇が万世一系ではなく、古代において崇神王朝、応神王朝、継体王朝の3王朝の交替があったという説です。応神天皇という新しい系統の天皇がこの国を治めることになったけれど、後の天皇が万世一系という体裁を取り繕うために、「お腹に石を巻いて冷やして出産を10ヶ月以上も遅らせる」などというちょっと苦しい感じのエピソードを付け加え、仲哀天皇と神功皇后の子が応神天皇という構図を維持したのではないかという説もあります。
さて、先に述べた仲哀天皇の像が女性の理由について幾つか考えられそうです。
①祭神は仲哀天皇ではなく本来は神功皇后で、女性の像を作ったが、名前をつけ間違えた。
②仲哀天皇は実は女性で、神功皇后と呼ばれている人が実は男性だった。
③②の発展系で、神功皇后と呼ばれている人が、実は仲哀天皇だった。
記紀において、仲哀天皇は不運の天皇という印象です。その割に妻である神功皇后が朝鮮に出兵するという男勝りな活躍をしています。出産を10ヶ月以上遅らせるという不自然なエピソード付きで。②や③を基に穿った見方をすると、実は朝鮮に出兵したのは仲哀天皇で、その行動を次の応神天皇が認めたくなかったからこそ、仲哀天皇の存在感をなくして代わりに皇后を活躍させるというエピソードを作ったと考えることもできます。まぁ、実は①で単なる名前の付け間違えという可能性も大いにありますが。
この点は、もう少し深掘りして考えても面白いかもしれません。