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「またね」と未来に向けて手を振る君に、私は会いたい。
先日、こんな記事を書いた。
そして、昨日、この記事を書いた。
人が誰かに「会いたい」と思う気持ちに理由はいらないと思っているのは、本心だ。
もちろん「用事があって」会う人もいるが、そういう人とは用がなければ会わない。会う理由や用事がないからだ。
では、友人や大切な人と会いたい時、「もう会えない」ことを前提にして会う人がいるかというと恐らくあまりいないだろう。
転勤や、退職などであれば話は別だが、それは「限られた一日」であり、たいていは、「またね」と手を振って別れるだろう。
そしてその「限られた一日」に該当する人はおそらく、そこまで深い仲ではなく、「この先何かがなければもう会わない人」だろう。
その「限られた一日」にはまらない友人や大切な人との「またね」は、何週間後かもしれないし、何ヶ月後かもしれない。もしかしたら、転勤をしている何年かもしれないけれど、じゃあ、その間連絡を一切取らないかといったらそうでもないだろう。
わたしが辛いのは、「またね」と手を振って別れることが出来ない。
それが切ないのだ。
「次はあるかもしれないし、ないかもしれない」
「その日は来ないかもしれない」
そう感じるからこそ、胸が締め付けられそうなほど苦しいのだ。
自分が「積極的」に求めても、相手は「求めてない」。もしかしたら、「拒絶」に近いのかもしれない。
「拒絶」されるために「会う」人はいるのだろうか。好きな人に、「これから自分は拒絶される」という現実を笑って受けいれられるだけの懐の広さは、私には、ない。
恐らく過去を懐かしんだ後の彼も、きっと辛くなるだろう。いや、ならないのかな。好きじゃないなら…
私の中でのお友達との「会いたい」の時間は楽しく穏やかな、心落ち着く時間だ。
そしてバイバイの時間は少し寂しいが、「またね」が、お互いの意志としてある未来が楽しみなバイバイだ。
そんな「会いたい」の時間を、私は、関わる人と、過ごしたい。なぜならそれは、私にとって、大切な人だから。