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結局、婚姻ってすごい制度だと思う、という話。
前回のブログで、
どれだけ恋焦がれても一緒に居られないなら、相手の幸せをただひたすらに願うしかない。
ということを書いた。
それはまるで、港から出港する船を「気をつけてね」と見送る母のようなものに近いのかもしれない。
とも。
とはいえだ。
いくら祈り、願い続けたところで、未来の話がなければ、正直、祈って、願って終わるのがこの3次元の世界だ。待つことなどない。
もちろん、忘れられない、という気持ちが上回れば話は別だろうが「待っている」という選択にはならないだろう。なぜなら、時間は等しく流れ、自分の人生があるからだ。
血の繋がった母であれば、いつかその港に里帰りする我が子をあたたかく受け入れることも出来るだろうが、私は母ではない。
出港した船に、既に乗員がいるのであれば、航海に出たあとはその2人で荒波やさざ波を乗り越えていくか、それが出来ないなら、
その船を今後どうしていきたいのか
その船をどこに向かわせたいのか
話し合う必要がある。
が、その話し相手は既に乗員である人であって、これもまた私ではない。
つまり何が言いたいかって言うと、
血縁関係や婚姻制度ってすごいですね
という話だ。
お互いの想いを確かめたところで、現実世界では変化を恐れていては何も変わらないのであって、母でも乗員でもない私は次の出会いを探しに行くっていうただそれだけのこと。
この人と、これからも一緒に航海します
と決めた相手が私ではないなら、私が一緒に船を乗ることはないというのが現実であり、事実だ。
そしてそれを選び、決めたのは、私ではない。
好いた、腫れた、惚れた、で繋がる関係は非常に楽だ。嫌になったら別れればいい。
婚姻制度だって嫌になったらやめればいい。個人の自由だ。
ただここに大きな違いがひとつある。
家族、婚姻関係ならば、何かあっても聞き流してまた楽しくやっていこうと思うが、そうでなければ気持ちは少しずつ離れていく
ということだ。
恐らく気持ちが離れるのは、婚姻関係でも同じだろう。離れても婚姻関係という船からお互いに降りないのは、それを我慢してもなおお互いに一緒にいることにメリットがあるか、もしくは面倒くさいだけだろう。はたまたどちらか一方、もしくは双方が修復を頑張っているのだろう。
が。
だ。
そんなことを考えると婚姻関係ってひどくお互いを縛り付けてるように感じて不自由だなと思う。
離婚は結婚より大変とは、これだ。
取り決めることがたくさんある。
そんなものに縛られるぐらいなら、もっと深い気持ちの部分できちんとつながっていられるパートナーを得ることの方が、私にはよっぽど建設的で健全な関係が築けると思うのだ。
すぐに解消することができるメリットがある分、お互いを失わないように、デメリットになる不安定な関係を維持しようと双方努力するからだ。
冷えた家庭で食べるごはんは、たぶん、寂しい。
これは、昨年Facebookから流れてきたものだ。
結婚とか事実婚とかパートナーとか、そういうのは全部、この「誰と」の部分が大きな鍵になるとおもう。
自分が満たされない恋愛や夫婦関係は、いつか、「こんなにしてあげたのに」と相手をひどく傷つけることになりかねない。
「こんなにした」という過去に費やしたものがあるから先に進めないのだ。経済用語として使われる『サンクコスト=埋没費用』は、恋愛や夫婦関係においても回収など出来ないと思っている。過ぎた時間や、かけたお金は取り戻せないからだ。「埋没」したからだ。それを諦められず突き進むか、どこかで諦めてそれ以上の労力や費用をかけないことを選ぶか。大事なのはそこだ。
振り返って、考えた方がいいのは、「自分が本当はどうしたいのか」という本心だ。その本心の上でこそ、本人、乗員、周囲にとって、本当の幸せがあるのではないだろうか。乗員のために自分の本心に蓋をしても、周囲や体裁のために本心に蓋をしても、結局誰も幸せではないと思うのだ。
もう少し具体的に、こう考えると分かりやすいだろう。
「今、隣にいる人が、他の人といたいと思っている」
「今、一緒にいる人が、1人になりたいと迷っている」
という事実や、「そうなのかな?」という疑いの心は、遅かれ早かれ相手に伝わる。だが、それを伝えられずに双方苦しむ。そこにある幸せはなんなのか。私は「自分より他の人といたい」と思っているだろう人とは一緒にいたくない。自分がハッピーじゃないからだ。子供がいれば話は変わってくるのかもしれないが、そうでなければただの執着と依存だ。誰のことも幸せにしない。
逆に子供の立場から考えてみれば、「自分のために親は一緒にいる」というのは、かえって重荷ではないだろうか。「自分のせいで親はそれぞれの幸せを手に入れられなかった」と考えると子の立場になれば、「子供のせいにするなよ」と思うだろう。
父や母の立場で考えれば、「自分の子供が幸せになる」道を応援しない人はいないだろう。
今の社会は離婚に寛容だ。「離婚したら社会的信用がなくなる」と考える人は多いが、本当にそうだろうか。そこに自分の偏見やバイアスはないだろうか。
実際私の周囲には離婚した人がそれなりにいるが、「この人は離婚してるから信用ならない」と考えたことなどない。離婚に至るまでには、様々な事情や過程があるからだ。当人が話し合いの末に納得して決めたことならそれが1番ハッピーだと思う。そしてお互いに納得して前を向いて先に進めたら、それが例え違う道だったとしても、「婚姻中より関係性がよくなった」という人もいるし、「今も仲はいいよ」という知人もいる。
結局並べ立てているのは、「それを選ばない」理由だけだ。誰の幸せでもない。
婚姻制度にあぐらをかくと失敗する。だったら、パートナーシップや事実婚でも穏やかな、ゆるやかな生活をしていけたらいいなと思う。もちろん、それをもってしても、「入籍したいね」という話になったらその時に、入籍したらいいと思う。
だからこそ、婚姻制度って尊いものなんだと思う。婚姻届という紙1枚に私が異常に慎重になるのは、それに縛られてる人と、解放されて今は幸せな人生を歩んでいる人を見ているからだろう。
いずれにせよ、人は幸せになるために生きている。
私も、これを読んでくれているあなたも、あなたの周りの人も、幸せであればいいなと思う。